こちょこちょ研究部

第4章監査が来た

9,112字約15分で読めます2026年10月29日
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アシモミ改の製品化は、順調に進んでいるらしい。

木戸さんから、毎日のように内線がかかってくる。「パッケージの色、何色がいいと思う?」「名前、『アシモミ改』のままだと地味かしら」。そのたびに、大倉部長がにこにこしながら受話器を置く。

部長は、この一週間、ずっと機嫌がいい。お茶の淹れ方まで、なんだか軽やかだ。

私も、少しだけ浮かれていた。こちょ研の、初めての商品。そこに、私の足の裏のデータが使われている。手帳の正の字よりも、そっちのほうが、なんだか誇らしかった。

だから、その朝、非常階段から聞こえてきた足音に、すぐには気づかなかった。

こつ。こつ。こつ。

台車の音でも、スニーカーの音でもない。硬いヒールが、コンクリートの階段を、一段ずつ正確に踏む音だった。

鉄の扉が、静かに開いた。

入ってきたのは、黒いスーツの女の人だった。髪をきっちりと後ろでまとめて、銀縁の眼鏡をかけている。胸に、分厚いファイルを抱えていた。首から、ストップウォッチを下げている。

「品質保証部の、鶴見です」

声まで、まっすぐだった。

「本日、こちらの部署の試作品について、安全試験を行います」

鶴見さんは、部屋をゆっくりと見回した。試作品が詰めこまれたスチールの棚。リクライニングチェア。壁のモニター。

そして、ちゃぶ台。

鶴見さんの眉が、ほんの少し、ひそめられた。

「……笑いで、仕事が進むわけがありません」

小さな声だったけれど、地下の部屋は静かなので、よく聞こえた。

木戸さんの言葉を思い出した。あの人、厳しいからねえ。こういうの、たぶん、すっごく嫌いだと思う。


「本日は、来春の発売候補のうち、二つを試験します」

鶴見さんは、ちゃぶ台の横に立ったまま、ファイルを開いた。部長が「まあ、座って」と座布団を出したけれど、座らなかった。

「品質保証部の安全基準について、説明します」

鶴見さんが、ファイルの一ページを指でたどる。

「試験中に、被験者が自分で停止した製品は、刺激が強すぎるとみなし、発売を認めません」

「止めたら、発売できない……」

「はい。利用者が途中でやめたくなる製品は、売るべきではありませんから」

筋は、通っていた。

通っているから、言い返せなかった。

部長は、いつものようにのんびりと「よろしくお願いします」と言って、鶴見さんの前に湯のみを置いた。鶴見さんは、それに手をつけなかった。

「一つ目は、こちらです」

透子さんが、棚から持ってきたものを、ちゃぶ台の上に置いた。

太い懐中電灯みたいな、筒の形をした機械だった。手のひらで握るのにちょうどいい太さで、表面は白いシリコンでできている。筒の上のところに、赤い丸ボタンがひとつ。

「ニギワラ。握るだけで笑える、ストレス解消グリップです」

透子さんが、筒の握る部分を指さした。よく見ると、シリコンの表面に、細かい穴がびっしり開いている。

「握ると、この穴から、細い毛が出てきて動きます。上のボタンが、停止スイッチです。親指で押せます」

「三分間、握り続けてください」

鶴見さんが、首のストップウォッチを手に取った。

「止めたければ、親指のボタンを押して結構です。ただし、押したら、この製品は発売できません」

それから、もう一つ、と付け加えた。

「手を開いた場合も、試験放棄とみなします」

私は、ニギワラを見つめた。

頭の中に、手帳の正の字が浮かんだ。三千円。五千円。

でも、今日は、それじゃない。

アシモミ改の次に、こちょ研から出るかもしれない商品。部長の、軽やかなお茶。透子さんの、きらきらした目。木戸さんの「来年の春よ!」。

今日は、手当のためじゃない。こちょ研のために、耐える。

そう思ったのは、配属されてから、初めてだった。

透子さんが、私の横に来て、小声で言った。

「日向さん。無理なら、押してください」

透子さんにしては、珍しく、データの話じゃなかった。

私は、首を横に振った。


ニギワラを、右手で握った。

ひんやりしたシリコンが、手のひら全体に吸いつく。親指を、グリップの頭の赤いボタンの、すぐ横に置く。押さないように。でも、手を開いたことにならないように。

「開始します」

鶴見さんが、ストップウォッチを押した。

その瞬間、手のひらの中で、何かがいっせいに目を覚ました。

穴から、細い毛が出てきたのがわかった。何百本も。それが、手のひらの真ん中で、ぞわぞわぞわっと動き出す。

「っ……!」

思わず、手を開きそうになった。

開いたら、試験放棄。

ぎゅっと、握り直した。

握り直したら、毛が、手のひらにもっと強く押しつけられた。

「ふっ……! く、くふっ……!」

手のひらって、こんなにくすぐったかったっけ。ふだん、ものを握ったり、拍手したり、一番よく使っている場所なのに。真ん中のくぼんだところを、毛がくるくると円を描くたびに、手首までぞわっと鳥肌が駆けのぼる。

『笑い指数 41』

毛が、指の付け根に移動する。指と指の間の、皮膚がやわらかくなっているところ。そこを、一本一本、くすぐっていく。

「ふふっ、くふふふっ、んふっ、ふふふふっ……!」

指先が、勝手に開こうとする。開いたら負け。握る。握ると、毛が押しつけられて、もっとくすぐったい。

握れば握るほど、くすぐったい。

開けば、こちょ研が負ける。

『笑い指数 53』

「残り、二分」

鶴見さんが、ストップウォッチを見たまま言った。表情は、まったく変わらない。

まだ一分しかたっていない。

毛が、指の腹にまで這い上がってきた。人差し指の腹、中指の腹、薬指の腹。指紋のうずの上を、毛先がなぞっていく。

「あはっ、あははっ、ひゃっ、ふひゃっ、ひゃははっ!」

親指の、すぐ下に、赤いボタンがある。

押せば、終わる。

親指の腹に、ボタンのふちが当たっている。ほんの少し力を入れるだけで、押せる。笑うたびに手に力が入って、親指がボタンのほうへ、ぐっと引き寄せられる。

だめ。押したら、ニギワラは商品にならない。

ボタンが、一番近くて、一番遠い。

「ひゃははははっ、あはっ、あははははははっ!」

『笑い指数 68』

「残り、一分」

親指を、ボタンから、そうっと離した。ボタンのふちから、一ミリ、二ミリ。手を開いたことにならない、ぎりぎりのところまで。

毛が、手のひらの真ん中に戻ってきた。一番最初の、一番くすぐったいところ。そこで、いっせいに、ふるふると震えた。

「くひゃははははっ! あはははっ、ひゃっはははははははっ!」

『笑い指数 74』

「三十秒」

「あははははっ、ひゃははっ、あっははははははっ!」

「十秒」

握った。親指を遠ざけたまま、手のひらだけで、ぎゅっと握った。

「……終了です」

ストップウォッチの、カチッという音がした。

ニギワラの毛が、すっと穴の中に引っこんだ。

私は、そっと手を開いた。手のひらが、真っ赤になっていた。握りしめすぎた跡が、くっきりついている。

赤いボタンは、一度も押されていなかった。

「ニギワラ、合格です」

鶴見さんは、ファイルに何かを書きこんだ。


鶴見さんは、ファイルを閉じると、壁のモニターをじっと見た。

モニターには、さっきの笑い指数のグラフが映っている。四十一から始まって、七十四まで上がっていく線。

鶴見さんは、腕を組んだ。

「この笑い指数というのは、表情と、声から計算しているんですよね」

「はい。表情筋の動き、呼吸の乱れ、発声を合わせて算出しています」

透子さんが答えた。

「であれば」

鶴見さんが、眼鏡の奥の目を、私に向けた。

「演技で、上げられますね」

……え。

「被験者の反応が大げさであれば、数値も大きく出ます。この部署の試験データは、全体的に数値が高すぎる。範囲外が、何度も出ている。普通は、ありえません」

演技。

私の、あの笑いが。

むっとした。ものすごく、むっとした。

演技で、あんなに笑えるわけがない。演技で、一週間も筋肉痛になるわけがない。

言い返そうとして口を開いたら、鶴見さんは、もう私を見ていなかった。透子さんのほうを向いていた。

「千石さん。あなた自身には、こういうものが、まったく効かないと聞きました」

「はい」

「なのに、なぜ、こんなものを作るんですか」

透子さんは、すぐには答えなかった。

いつもなら、何を聞かれても、すぐに、まっすぐ答える人なのに。

少しだけ、間があった。

「……データが、足りないので」

それだけだった。

鶴見さんは、それ以上は聞かなかった。私も、聞けなかった。

「なお、今日のデータは、新しいAIの学習にも使います」

透子さんは、いつもの声に戻って、そう付け加えた。

「では、二つ目です」

透子さんが、部屋の奥の布をめくった。

ワラエールだった。配属初日に、私を計測範囲外まで連れていった、あのリクライニングチェア。でも、少し形が変わっていた。ひじ掛けの内側から、新しいアームが四本、生えている。お腹の高さに、ちょうど届く位置に。

「ワラエール改。お腹用のアームを追加しました」

「五分間です」

鶴見さんが、ストップウォッチをリセットした。

「それと、服の上からでは、実際の使い方と条件が違います。家で使う人は、部屋着をめくって使うでしょうから」

……それも、筋は通っていた。

ちゃぶ台のほうで、部長がよっこらしょと立ち上がった。

「じゃあ、私はお茶を淹れなおしてくるね」

急須を持って、給湯室のほうへ出ていく。気をきかせてくれたのだ。

私はチェアに座って、ブラウスのすそに手をかけた。その下の、下着のシャツのすそも一緒に、みぞおちの下まで捲り上げる。

地下の空気が、お腹に、ひやっと冷たかった。

透子さんが、捲り上げたすそを、大きなクリップで留めてくれた。

「ずり落ちないように」

ずり落ちてくれたほうが、ありがたいのに。

停止スイッチは、今回も、右手に握らせる小さなボタンだった。透子さんが、私の右手にそれを持たせる。親指をかければ、すぐに押せる位置。

押せる。

いつでも、押せる。

押さないだけだ。


「開始します」

カチッ。ストップウォッチの音と、ウィーンというモーター音が、同時に鳴った。

ひじ掛けの内側から、アームが四本、するりと伸びてきた。左右から二本ずつ。シリコンの指先が、お腹の上で、ぴたりと止まる。

ひやっとした。

指先の冷たさが、素肌に直接、触れた。

配属初日のワラエールは、ブラウスの上からだった。たった一枚の布。それがないだけで、まるで違った。シリコンの指のやわらかさも、冷たさも、ほんの小さな動きも、全部が、そのまま肌に伝わってくる。

指先が、おへその横を、つん、とつついた。

「ひゃいっ!」

お腹が、びくんと波打った。

つん。

「ひぅっ」

つん、つん。

「ちょっ、ひゃっ、ひゃっ!」

一回つつかれるたびに、お腹の筋肉が勝手にへこむ。へこんだところを、また、つん。逃げようとして体をよじると、捲り上げたブラウスが下りてきてくれない。クリップが、しっかり留めている。

守るものが、何もない。

お腹から、わき腹まで、全部、むき出しのままだ。

『笑い指数 35』

指の動きが、変わった。

つつくのをやめて、おへその両側に、指が四本ずつ、ぴたりと貼りついた。

揉んだ。

「ぶふっ!」

噴き出した。

おへその横の、やわらかいところを、シリコンの指が、もみ、もみ、と押しては離す。押されるたびに、お腹の奥から、笑いが押し出されてくる。

「あはっ、あははははっ! だめっ、もむのはっ、ひゃははははっ!」

『笑い指数 52』

右手の中の、スイッチ。

親指が、そっちへ動きそうになる。

だめ。押したら、ワラエール改は商品にならない。商品が出なければ、こちょ研がなくなる。部長のお茶も、透子さんのデータも、全部。

親指を、まっすぐ伸ばした。ボタンから、遠ざけた。

「残り、四分」

鶴見さんの声が、淡々と響いた。

まだ、一分。

指が、おへそのまわりを、くるくると回り始めた。円を描きながら、少しずつ、少しずつ、円を小さくしていく。

おへそに、近づいてくる。

「ひっ、ひっ、ひゃっ、くる、くるっ、あははははっ!」

近づいてくるのがわかるから、笑う前から、お腹がこわばる。こわばったところに、指先が、くるっと最後の小さな円を描いた。

「ひゃーっははははははっ! あっははははははははっ!」

『笑い指数 67』

右の指が、お腹から離れた。

ほっとしたのは、一瞬だった。

右の指は、わき腹に回りこんだのだ。わき腹の、一番下。そこから、肋骨にそって、すうっと、なで上げてくる。

左の指は、まだ、お腹にいた。おへその横を、もみ、もみ。

左はお腹。右はわき腹。

「あっひゃひゃひゃっ、ちがうっ、みぎとひだりっ、ちがうのはっ、ひゃはははははははっ!」

左右で、まったく違うくすぐったさが、同時に来る。頭が、どっちに身構えればいいのかわからなくなって、混乱したまま、笑いだけがあふれていく。

「残り、三分」

まだ、そんなに。

体をよじった。足をばたつかせた。チェアのひじ掛けに、背中を押しつけた。でも、アームは、私がどこへ動いても、正確についてくる。

「くひゃひゃひゃっ、ひゃははははっ、あはははははははははっ!」

右手が、ぎゅっと握りしめられた。

笑いすぎて、全身に力が入る。右手にも、力が入る。親指が、勝手に、ボタンのほうへ曲がっていく。

押しちゃう。

押しちゃう、押しちゃう、押しちゃう——

「ひゃはっ、だめっ、だめだめっ、あはははははっ!」

親指を、反対側に、思いきりそらした。関節が痛いくらいに。ボタンから、少しでも遠くへ。

今までの試験は、押したいのに、押せなかった。

今日は、押せるのに、押さない。

押さないほうが、ずっと難しかった。

『笑い指数 81』

「残り、二分」

指が、また変わった。

左右とも、わき腹へ。肋骨の、一番下の骨。そこを、指先で、ぴん、ぴん、と弾き始めた。配属初日にやられた、あの動き。

でも、あのときはブラウスの上からだった。

今は、素肌だ。

「ひーっ! ひっ、ひゃひっ、ほねっ、ほねっ、ひゃーっはっはっはっはっはっはっ!」

骨に、直接響く。弾かれた場所から、くすぐったさが、背中のほうまで、腋の下のほうまで、駆け上がってくる。

「あーっはっはっはっはっはっはっ! ひゃっはっはっはっはっはっはっはっ!」

『笑い指数 92』

涙が、こめかみのほうへ流れていった。

鶴見さんの姿が、にじんで見える。眼鏡が、ストップウォッチを見下ろしている。

「残り、一分」

あと一分。あと一分で、ワラエール改は、商品になれる。

指が、最後に、全部いっぺんに来た。

左右のお腹を、揉みながら。わき腹を、なで上げながら。おへそのまわりを、くるくる回りながら。四本のアームの、十六本の指が、それぞれ別々の動きで、いっせいに。

「ひゃあぁぁっははははははははっ!! あっひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ! ひゃーっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」

『笑い指数 99』

『計測範囲外』

赤い文字が、点滅し始めた。

「……演技にしては」

鶴見さんが、ぽつりとつぶやいた。

「長いですね」

「きゃーっははははははっ、えんぎじゃっ、ないってばぁっ、あーっはははははははははっ!」

「三十秒」

あと三十秒。三十秒だけ、押さなければいい。親指をボタンから遠ざけたまま、私はただ笑い続けた。

「あははははははっ、ひゃははははははっ、あっははははははははははっ!」

「十秒」

「ひゃーっはっはっはっはっはっはっはっ!」

「……終了です」

カチッ。

アームが、するすると、ひじ掛けの中へ戻っていった。

私は、チェアの上で、天井を見上げていた。お腹が、まだ勝手にぴくぴく動いている。透子さんが、クリップを外して、ブラウスのすそを下ろしてくれた。

右手を、開いた。

停止スイッチの赤いボタンは、一度も、押されていなかった。

「ワラエール改、合格です」

鶴見さんの声は、さっきより、ほんの少しだけ、小さかった。


ちょうど、部長がお茶を淹れて戻ってきた。

鶴見さんは、ファイルを閉じて、しばらく黙っていた。

それから、眼鏡を指で押し上げた。

「演技でないことを、確認します」

「確認」

「私が、座ります」

鶴見さんは、ワラエール改に、まっすぐ歩いていった。スーツの上着を脱いで、きっちりたたんでちゃぶ台に置く。ブラウスの上から、で十分だと言った。

さっきの「実際の使い方と条件が違います」は、どこへ行ったのだろう。

「低出力で、結構です。演技でないのなら、低出力でもそれなりの数値が出るはずです。出なければ、これまでの数値は大げさだったということになります」

透子さんが、停止スイッチを差し出した。

鶴見さんは、受け取らなかった。

「必要ありません。演技でないなら、低出力くらい、耐えられるはずです」

透子さんは、少しだけ首をかしげてから、スイッチを引っこめた。

「開始します」

ウィーン。

アームの指先が、鶴見さんのブラウスの上から、お腹に触れた。

一秒。

鶴見さんは、表情を変えなかった。

二秒。

鶴見さんの口の端が、ぴくっと動いた。

三秒。

「……っ、ぶふっ」

噴き出した。

「くっ、ふ、ふふっ、こ、これはっ、ちがっ、ふふふっ、ふはっ、あっはははははっ!」

きりっとした顔のまま、必死にこらえようとしているのがわかった。眉をつりあげて、唇を引き結んで。でも、こらえようとすればするほど、こらえきれなかった分が、ものすごい勢いで噴き出してくる。

「あはははははっ! ちょっと、まっ、てくださっ、あっははははははははっ!」

『笑い指数 99』

『計測範囲外』

低出力で。三秒で。

私は、チェアの横で、ぽかんと口を開けていた。

鶴見さんの手が、ひじ掛けの上をさまよった。停止スイッチを探している。でも、受け取らなかったスイッチは、透子さんの手の中にある。

「わかりましたっ、わかりましたからっ、あははははっ、商品にしていいですからっ、止めてくださいっ、ひゃははははっ!」

透子さんの親指が、スイッチの上で止まった。

押さなかった。

「確認します」

「あはははははっ、なにをっ、ですかっ、あっははははははっ!」

「今の『商品にしていい』は、品質保証部としての正式な許可ですか。それとも、止めてほしいから言っただけですか」

「どっ、どっちでもっ、いいでしょうっ、ひゃははははははっ!」

「よくありません。報告書に書くので」

透子さんは、本気で聞いていた。意地悪で言っているのではないことは、三週間いっしょにいた私にはわかる。わかるけれど、座っている側からすると、たぶん同じことだ。

「せっ、正式ですっ、正式っ、あははははははっ、ですからっ、あーっはははははははっ!」

「笑いながらの発言なので、本心かどうか判断がつきません」

「じゃあっ、どうしろとっ、きゃははははははははっ!」

アームの指が、お腹からわき腹のほうへ、ゆっくり移っていった。低出力のままなのに、鶴見さんの体が、チェアの上で大きく跳ねた。

「ひゃあっ、そっちはっ、だめっ、あははははははははっ、だめですってばぁっ、あっははははははははははっ!」

「品質保証部の基準書には、許可の出し方の決まりはありますか」

「あ、ありますっ、ありますけどっ、いまっ、それどころじゃっ、ひゃーっはははははははははっ!」

「どういう決まりですか」

「しょっ、書面でっ、部長印をっ、あははははははっ、押してっ、ひゃははははははっ、書面っ、書面で出しますからぁっ、あーっはっはっはっはっはっ!」

「書面は、いつ出ますか」

「あしたっ、あしたっ、あしたの朝いちばんでっ、きゃーっははははははははははっ、だからっ、とめてっ、とめてくださいぃっ、あはははははははははははっ!」

鶴見さんの眼鏡が、鼻の先までずり落ちていた。きっちりまとめていた髪が、ひと房、ほつれて顔にかかっている。さっきまでストップウォッチを握っていた手は、ひじ掛けの端を、ぎゅっとつかんで離さなかった。

三十分前の私が、そこにいた。

「承知しました」

透子さんが、ようやくスイッチを押した。

アームが、引っこんだ。

鶴見さんは、しばらく、チェアの上で肩を上下させていた。眼鏡が、少しずれていた。

それから、眼鏡を直して、ブラウスの襟を整えて、深く息を吸った。

「……やはり、こんな危険なものは、許可できません」

言い終わる前に、透子さんが、真顔のまま、スタートボタンを押した。

「では、確認を続けます」

「えっ、ちょっ、ひゃっ、ふっ、あははははははっ! きょっ、許可しますっ、正式な許可ですっ、あはははははははっ!」

「さっきは、商品にしていいとおっしゃいました。そのあとで、許可できないとおっしゃいました」

「いまのはっ、ほんとうにっ、ほんとうですっ、あっはははははははははっ!」

「どちらが本当か、判断がつきません」

「ぜんぶっ、ぜんぶ正式ですっ、取り消しませんっ、にどと取り消しませんからぁっ、ひゃーっははははははははははっ!」

「では、一つずつ確認します。一度取り消されているので」

「ひとつずつっ、あははははははっ、いまっ、ですかぁっ、あっははははははははっ!」

「今です。対象の製品は、どれですか」

「にっ、ニギワラとっ、ワラエール改っ、りょうほうっ、ひゃはははははははっ!」

「両方。書面は、いつまでに出ますか」

「あしたのっ、あさっ、くじっ、九時までにっ、きゃははははははははっ!」

「九時。部長印は、どなたのですか」

「品質保証部のっ、部長のっ、あはははははっ、わたしがっ、もらってきますっ、あーっはははははははははっ!」

「書面に、『あとから取り消さない』と書いてもらえますか」

「かきますっ、かきますからぁっ、ひゃーっはっはっはっはっはっはっはっ、ぜったいっ、かきますからぁっ、きゃーっははははははははははははっ!」

透子さんは、タブレットに何か打ちこんでから、うなずいた。

「承知しました」

透子さんが、また止めた。

ちゃぶ台で、部長がお茶をすすった。

「録音も、されてるからね」


鶴見さんは、それから五分ほど、ちゃぶ台の前に正座して、部長の淹れたお茶を、黙って飲んでいた。最初に出されたほうの湯のみも、冷めていたけれど、ちゃんと飲みほした。

帰りぎわ、鶴見さんは、鉄の扉の前で、立ち止まった。

振り返らなかった。

「……また、来ます」

それだけ言って、こつ、こつ、こつと、階段を上っていった。来たときよりも、少しだけ、足音が軽かった気がした。

「気に入ったみたいだね」

部長が、にこにこしながら言った。

その日の夕方、透子さんの試験報告書が回ってきた。所見の欄には、こう書いてあった。

『ニギワラ、ワラエール改、いずれも合格。監査官の笑い指数、低出力で計測範囲外。演技の可能性は否定された。監査官は試験中、「商品にしていい」「正式な許可です」と発言した(音声記録あり)。』

報告書の一番下に、小さな字で、もう一行あった。

『被験者は、停止スイッチを一度も押さなかった。』

私は、その一行を、しばらく眺めていた。