三日間、考えた。
それから、私はギルドの扉を開けて、カウンターに、まっすぐ歩いていった。
「ハンナさん。話があるの」
ハンナさんは、依頼書の束から顔を上げた。私の顔を見て、後ろのミレイの顔を見て、それから、ゆっくりと依頼書を置いた。
「……備品の話かい」
「備品の話と、泉の話と、ハンナさんの話」
出張所の中には、他に誰もいなかった。ハンナさんは立ち上がって、入り口の札を「休憩中」に裏返した。
「座りな。長くなる」
ハンナさんは、昔、冒険者だった。
それも、かなり腕のいい冒険者だったらしい。若いころにこの町に流れついて、森の奥で、ある泉を見つけた。
「笑いの泉。町の年寄りが昔話にするやつさ。あれはね、本当にあるんだよ」
ずっと昔、この土地が、悲しいことで沈みきっていた時代があった。笑う人が誰もいなくなった町に、一人の魔女がやってきて、森の奥に泉を作った。人を笑わせるための泉を。
泉は、人の笑い声を糧にして湧く。泉の魔力を浴びた森の魔物たちは、人間を笑わせたいという本能を持つようになる。だから、この辺りの魔物は、くすぐりはしても、本気で人を傷つけない。
「で、泉には、守り人がいる。泉の様子を見て、町に笑い声が絶えないようにする役目さ。先代から、あたしが継いだ」
「……ハンナさんが」
「似合わないだろ」
ハンナさんは笑った。今度は、ぎこちなくなかった。
「ところが、ここ何年か、泉の水が減ってきた。町が静かになって、笑い声が減ったんだ。泉が弱ると、森の魔力が薄くなる。腹を空かせた魔物が、人里に出てくる。幽霊屋敷も、温室のツタも、峠の狐も、みんなそうさ」
「じゃあ、私たちにくすぐり系の依頼ばっかり回してたのは」
「あんたたちが、いちばんいい声で笑うからだよ」
それは褒め言葉なのか。
「それと、もうひとつ」ハンナさんは、私とミレイを交互に見た。「あたしも、いい年でね。後継ぎを探してたんだ。泉を任せられる、笑い声の大きいやつを」
ハンナさんは、カウンターの下から、古い地図を一枚取り出した。森の奥に、赤い丸がひとつ、描いてある。
「泉は今、ほとんど涸れかけてる。たぶん、ひとりの守り人の力じゃ、もう戻せない」
それから、ハンナさんは、頭を下げた。
豪快なハンナさんが、カウンターの向こうで、深く頭を下げていた。
「頼む。森の奥へ、行ってほしい」
私は、ミレイと顔を見合わせた。
ミレイは、少しだけ、困ったように笑った。それから、うなずいた。
「報酬は?」と私は聞いた。
ハンナさんが、顔を上げて、目を丸くした。それから、腹の底から、豪快に笑った。
「泉がよみがえったら、あたしの給料から、家賃三か月分」
「受ける」
出発の朝、ひつじ亭の前には、思ってもいなかった顔ぶれが集まっていた。
まず、峠の九尾の狐。月一のおにぎりの配達日でもないのに、銀色のしっぽを揺らして、宿の前に座っていた。
「泉が弱れば、わしも腹が減る。森の道なら、わしのほうが詳しいぞ」
それから、エルダさん。麦わら帽子をかぶって、大きな籠をしょっている。
「泉の近くに、あの子の生まれたところがあるんです。一度、見てみたくて」
ミレイは、窓辺にあったツタの鉢を、両手で抱えていた。
「この子も、ふるさとに連れていってあげたいので」
ツタは、鉢の中で、葉っぱを全部、こっちに向けていた。私のほうに。
それから、幽霊屋敷に寄って、マーサさんに会った。幽霊は屋敷から離れられないらしい。マーサさんは残念そうに笑って、自分の紫のショールを、ふわりと私の肩にかけてくれた。
「泉に行くなら、持っていって。私の若いころの、お守りなの。泉で、たくさん笑ってらっしゃいね」
ショールは、幽霊のものなのに、ほんのりあたたかかった。
最後に、ギルドの前で、ハンナさんが待っていた。足もとに、見覚えのある木箱が置いてある。
「……ハンナさん、それ」
「うちの備品だよ。泉までの荷物持ちさ」
木箱のふたが、ぱかっと開いた。
「どうも、お嬢さん方。先日は、どうも」
羽毛ミミックだった。
ミレイが、すっと私の後ろに回った。
「……最終決戦ね」と私は言った。
「決戦じゃないよ」とハンナさんが言った。「笑いに行くんだ」
森は、奥に行くほど、静かになった。
鳥の声がしない。風の音もしない。木々の葉っぱは、色があせて、元気がない。足もとの草も、しおれている。
「泉が弱っておる証じゃ」と狐が言った。
どのくらい歩いただろう。古い石の道しるべを三つ過ぎたところで、茂みが、がさがさと揺れた。
白い、綿毛のかたまりが、ころころと転がり出てきた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。たんぽぽの綿毛を、こぶしくらいの大きさに丸めたみたいな、小さな魔物たちだった。目も口もない。ただ、ふわふわと宙に浮いて、こっちをうかがっている。
「泉のそばに住む子らじゃ。腹を空かせて、弱っておる」
「くすぐってくる?」
「……くすぐってくるの」
綿毛たちが、一斉に飛んできた。
狙われたのは、私の手だった。
杖を握る、右の手のひら。綿毛がひとつ、手のひらにもぐりこんで、ふわふわと転がった。
「ひゃんっ!?」
手のひらの真ん中を、綿毛がくるくる回る。手のひらなんて、普段は物をつかむだけの場所なのに。そこを、ふわふわが、くすぐったい速さでころころ転がる。
思わず手を開いた。杖がからんと落ちた。
開いた手のひらに、綿毛が三つ、四つと飛びこんでくる。それから、指と指の間に、もぐりこんだ。
「ふふっ、ふはっ、ゆびっ、ゆびのあいだはっ……ちょっと、くふふふっ!」
指の股の、薄い皮膚のところを、綿毛がこしょこしょと通り抜けていく。人さし指と中指の間、中指と薬指の間。ひとつずつ、順番に、綿毛が指の間をくぐっていく。くぐられるたびに、指が勝手にぴくぴく跳ねる。手を握れば綿毛が手のひらの中で転がって、開けば指の間にもぐりこまれる。どっちも、くすぐったい。
左手にも来た。両手が、綿毛まみれになった。
「あははっ、ちょっ、りょうてっ、りょうてはずるいっ、きゃはははっ!」
手を振り回しても、綿毛はくっついて離れない。私は笑いながら、両手をぶんぶん振って、森の道を走った。走って、走って、綿毛たちが追いつけなくなるまで。
後ろから、ミレイが、私の杖を拾って、のんびりとついてくるのが見えた。
「リリアちゃん、泉はこっちですよ」
ミレイが指さしたのは、私が走ってきたのと、反対の方向だった。
泉は、森のいちばん奥の、岩に囲まれた小さな広場にあった。
岩をくりぬいた、丸い水盤。その底に、手のひらで掬えるくらいの水が、ほんの少しだけ残っていた。水面は動かない。湧いてくる気配もない。
そして、泉の後ろの岩壁に、絵が描いてあった。
色あせた、古い壁画だった。
真ん中に、とんがり帽子をかぶった女の人がいる。魔女だ。その魔女のまわりを、たくさんの人が囲んでいる。子ども、大人、おじいさん、おばあさん。羊や、狐や、鳥や、ふわふわした丸いものも描いてある。
そして、みんな、笑っていた。
魔女は、町の人たちにくすぐられて、お腹を抱えて、いちばん大きな口を開けて笑っていた。
「……魔女が、くすぐられてる」
「そうさ」
後ろから、ハンナさんの声がした。
「笑わせることだけ考えてたら、だめなんだよ。自分も笑わないと。泉を作った魔女は、そういう人だったって、先代から聞いた」
ハンナさんは、泉のふちにしゃがんで、涸れかけた水面を見つめた。
「この泉は、笑い声で湧く。だから、ここいっぱいに、笑い声を響かせれば、泉はよみがえる。……昔、先代とあたしがそうしたみたいに」
「ここいっぱいに、って」
私は、まわりを見回した。
狐が、九本のしっぽを、ゆらりと持ち上げていた。
エルダさんが抱えたツタの鉢から、ツタが、しゅるしゅると伸びはじめていた。泉の近くに来て、急に元気になったみたいだった。
ミミックが、ふたを、ぱかっと開けた。
さっきの綿毛たちが、ふわふわと追いついてきて、私の頭の上を、くるくる回っていた。
全員が、私を見ていた。
「……いちばんいい声で笑うのは、誰だったかな」とハンナさんが言った。
私は、深呼吸をした。
一回。二回。
それから、マーサさんのショールを、ぎゅっと握った。
「……いいわよ。やってやろうじゃない」
泉のほとりの、やわらかい苔の上に、私は仰向けに寝転がった。
両手を、頭の上に伸ばした。ブーツも脱いだ。逃げも隠れもしない。今日の私は、おとりじゃない。前衛でもない。
今日の私は、泉に笑い声を届けに来たのだ。
「では、ゆくぞ」
狐のしっぽが、まず、首筋に降りてきた。
九本のふさふさが、耳の後ろから、うなじから、あごの下から、首じゅうを包みこむ。峠で知ったあの感触が、いっぺんに戻ってきた。
「っ……ふっ、くふっ……」
ツタが、腰に巻きついた。脇腹に、産毛の葉っぱ。それから、先端が、肋骨を一段ずつのぼって、伸ばした腕の付け根の、脇の下へ。温室で知った、あのくるくる。
「ふふふっ……ふっ、ふぁ……っ」
ミミックの羽根が、素足の足の裏に。土踏まずを、すうっと。
「ひっ……!」
綿毛たちが、手のひらに、指の間に、それから、お腹の上に。服の上から、お腹の真ん中を、ふわふわと転がる。
それから、最後に。
背中に、見えない指が触れた気がした。背骨を、ひとつずつ数えるみたいに、とん、とん、と。
マーサさんのショールが、ふわりと揺れていた。
「……おばあちゃん?」
返事の代わりに、指先が、私の背中を、くすくすと笑うようにくすぐった。
首筋。脇の下。脇腹。背中。お腹。手のひら。足の裏。
今まで、ひとつずつくすぐられてきた全部の場所が、全部いっしょに、くすぐったかった。
そして、全員が、一斉に動きだした。
「——ぶわっはははははははははっ!! あーっはははははっ! ぜんぶっ、ぜんぶいっしょはっ、さすがにっ、きゃーーっははははははははっ!!」
笑い声が、森じゅうに響いた。
自分でもびっくりするくらい、大きな声だった。我慢なんて、最初からしなかった。お腹の底から、喉の奥から、体じゅうから、笑いがあふれて、止まらない。
しっぽが首を撫でる。ツタが脇の下でくるくる回る。羽根が足の裏を掃く。綿毛がお腹を転がる。見えない指が背中をくすぐる。どこに意識を向けても、そこがくすぐったい。どこにも意識を向けなくても、全部くすぐったい。
「ひゃーっはっはっはっ、あひゃっ、あひゃひゃひゃひゃっ! くびっ、わきっ、あしっ、おなかっ、ぜんぶっ、ぜんぶくすぐったいぃぃっ!」
体が苔の上で、跳ねる。転がる。のけぞる。手足が勝手にばたばた暴れる。でも、今日は逃げない。逃げないで、笑う。
泉の底で、こぽ、と小さな音がした。
水が、湧いた。
ほんの少しだけ。水盤の底から、透明な水が、ぷくぷくと泡を立てて湧き出してくる。
「いいぞ、リリア!」ハンナさんが叫んだ。「もっとだ!」
「も、もっとってぇぇっ!? これいじょうっ、ひーっ、ひーーっ、いひゃひゃひゃひゃっ!」
もっとだった。
狐のしっぽが、首から耳へ。ツタの先端が、二本、三本と、脇の下へ。ミミックの羽根が、足の指の間へ。綿毛が、おへそのまわりを、くるくるくるくる。
「ふぎゃーっはははははっ! むりむりむりむりっ、しぬっ、わらいしぬぅぅっ! しなないけどっ、しんじゃうぅぅっ!」
泉の水が、こぽこぽと、水盤の半分まで満ちた。
まわりの木々の葉っぱに、少しずつ、色が戻ってくる。しおれた草が、頭をもたげる。森のどこかで、鳥が一羽、鳴いた。
半分。あと、半分。
でも、そこで、水が止まった。
湧いてくる泡が、ぷく、ぷく、と小さくなって、消えた。
「……あれ?」
狐が、しっぽを止めた。ツタも、羽根も、綿毛も、止まった。私は苔の上で、ぜえぜえと胸を上下させながら、泉を見た。
半分のまま。それ以上、湧いてこない。
ハンナさんが、泉をのぞきこんで、首を振った。
「……足りないね。笑い声が、ひとり分」
「ひとり分、ですかな」
ミミックが、のんきな声で言った。
「それなら、ちょうどええのが、そこにおりますわな」
ミミックのふたが、ゆっくりと、ミレイのほうを向いた。
ミレイは、泉から少し離れた岩のそばに立っていた。祈祷書を胸に抱えて、いつもの微笑みを浮かべて。
その微笑みが、ぴしっと固まった。
「二年前のあの日、わしの箱に先に入ってきて、いちばん先に笑い転げてたのは、そっちの姉さんでしたからなあ」
森が、静まりかえった。
私は、苔の上で、ゆっくりと体を起こした。
「……ミレイ?」
ミレイは、黙っていた。
祈祷書を抱える腕に、ぎゅっと力が入っていた。微笑みは、まだ、顔に残っていた。でも、その微笑みは、今まで見たどの微笑みよりも、薄かった。
長い沈黙のあとで、ミレイは、小さく息を吐いた。
「……はい。そうです」
ミレイは、祈祷書を下ろした。
「二年前、私は、リリアちゃんより先に、あの箱に捕まりました。修行の途中で、ひとりでダンジョンに潜って。宝箱を見つけて、開けて」
ミレイの声は、静かだった。
「くすぐられて、祈りの言葉が一言も出なくて。必死で逃げ出して、通路の角で、ずっと息を整えていました。そうしたら、リリアちゃんの笑い声が聞こえてきて」
「……じゃあ、助けに来るのが遅かったのは」
「まだ、笑いが止まっていなかったんです」
ミレイは、困ったように笑った。
「祈りの言葉を唱えようとしても、さっきのくすぐったさを思い出すと、声が震えて。やっと唱えられるようになるまで、時間がかかりました。『楽しそうだったので』なんて、言い訳です。本当は、私も、リリアちゃんと同じくらい、くすぐったがりなんです」
私は、口を開けたまま、ミレイを見ていた。
「帰り道に、『詠唱できないときに守ってくれる人、いたほうがいいですよね』って言いましたよね」
「……うん」
「あれ、リリアちゃんのことだけじゃなかったんです。私も、守ってくれる人が、ほしかったんです」
二年分の、いろんな場面が、頭の中をぐるぐる回った。
幽霊屋敷の、マーサさんにつつかれた「ひゃいっ」。温室で、ツタから妙に素早く逃げたミレイ。峠で、狐のしっぽに崩れたミレイ。はじまりの洞窟で、箱を避けて歩いていたミレイ。震えていた、祈りの声。
「……今日は調子が悪かっただけ、って」
「調子が悪かったことは、一度もありません」
ミレイは、そこで、はじめて、まっすぐ私を見た。
「ごめんなさい、リリアちゃん。二年間、ずっと、言えませんでした」
私は、立ち上がった。
苔を踏んで、ミレイの前まで歩いていった。ミレイは、逃げなかった。
私は、ミレイの両手から祈祷書を取って、そっと岩の上に置いた。
それから、ミレイの脇腹に、両手を当てた。
「……リリアちゃん?」
「ひとり分、足りないんでしょ」
私は、にっこり笑った。たぶん、峠で見せたのと同じ、人生でいちばんいい笑顔だった。
「ミレイ。二年分、まとめて笑ってもらうから」
指を動かした。
「ひゃいっ!?」
ミレイの体が、跳ねた。
脇腹を、こちょこちょと。服の上から、肋骨の下の、やわらかいところを。私が幽霊屋敷で、さんざんくすぐられた場所を。
「り、リリアちゃっ、ま、待っ……ふっ、ふふっ、ふふふっ……」
ミレイの微笑みが、崩れはじめる。唇をきゅっと結ぶ。こらえる。でも、私は知っている。そのこらえ方を、私は二年間、自分でやってきた。どこでこらえきれなくなるかも、知っている。
狐のしっぽが、ふわりとミレイの首に回った。
「こたびは、遠慮はいらんのう」
「き、狐さんっ、ま、まって、ふふっ、ふぁっ……!」
ツタが、ミレイの手首に、やさしく巻きついた。両腕を、頭の上へ。エルダさんの「あら、この子、ミレイさんにもなついてたんですねえ」という、のんびりした声。
ミミックの羽根が、ミレイの膝の裏へ。綿毛たちが、ミレイの手のひらへ。
「あっ、だめっ、ぜんぶはっ、ぜんぶはだめですっ、ふふふっ、ふっ……ふぁっ……」
ミレイの声が、震えて、伸びて、裏返る。
私は、ミレイの脇腹を、両手で、思いきりくすぐった。
「——あっはははははははっ!! あはははっ、だめっ、だめですぅっ、りりあちゃっ、あーっはははははははっ!!」
ミレイが、笑った。
峠のときより、もっと大きな声で。上品さなんて、かけらもない。髪を振り乱して、涙を流して、お腹の底から、ミレイが笑っていた。
「ひゃっ、ひゃあっははははっ! そこっ、そこよわいんですっ、ずっとよわかったんですぅぅっ!」
「知ってた! なんとなく、知ってた!」
「うそですっ、あははっ、うそですぅぅっ、ひーっ、ひぃーっ!」
泉が、こぽこぽと音を立てた。
水が、湧き上がる。さっきよりずっと勢いよく。水盤の半分から、三分の二へ。
それから、ミレイが、ツタの間から、腕を一本だけ抜いた。
その手が、私の脇腹に伸びてきた。
「——りっ、リリアちゃんもっ、ですっ!」
「ひゃあっ!? ちょっ、ミレイっ、反撃はなしっ、なしでしょっ、あっはははははっ!」
「にねんぶんっ、ですっ、ふふあははははっ!」
「それっ、私のセリフぅぅっ! ひゃっはははははははっ!」
ミレイが私をくすぐって、私がミレイをくすぐった。二人とも、狐やツタや羽根や綿毛にくすぐられながら、苔の上に転がって、くすぐって、くすぐられて、笑った。
どっちの笑い声なのか、もうわからなかった。
二人分の笑い声が、ひとつに重なって、森じゅうに響いた。
泉が、あふれた。
水盤のふちを越えて、透明な水が、きらきらと広場に流れ出した。苔を濡らし、草を濡らし、木々の根もとへ、森の奥へ、流れていく。
色あせていた葉っぱが、いっせいに緑に戻った。鳥が、何羽も、何羽も鳴きはじめた。風が吹いて、森じゅうの木の葉が、さわさわと鳴った。
森が、笑っているみたいだった。
泉の後ろの壁画が、水しぶきに濡れて、少しだけ色を取り戻していた。くすぐられて笑う魔女の顔が、さっきより、ずっと楽しそうに見えた。
それからしばらく、私とミレイは、苔の上に並んで大の字になっていた。
息が、まだ整わない。お腹が痛い。顔が、涙と泉の水でびしょびしょだった。
隣で、ミレイが、ぜえぜえ言いながら、くすくす笑っていた。
「……ミレイ」
「……はい」
「さっきの、ほんと? ずっと弱かったって」
「……今日は、調子が悪かっただけです」
「うそつき」
「はい」
ミレイは、笑ったまま、そう答えた。
ハンナさんが、私たちの顔の上に、ぬっとのぞきこんできた。
「さて。守り人の後継ぎ、どうだい」
私とミレイは、顔を見合わせた。
二年間、くすぐられて、おとりにされて、笑い転げて。家賃に追われて、変な依頼ばかり受けて。
悪くなかった、と思う。
「家賃が払えるなら」
私とミレイは、同時に言った。
ハンナさんは、森じゅうに響くくらいの声で、豪快に笑った。
その夜、ひつじ亭で、女将さんがシチューを大盛りで出してくれた。家賃三か月分の前祝いだそうだ。
窓辺には、ツタの鉢が戻っている。泉の水をたっぷり吸って、葉っぱが倍に増えた。今夜も、全部の葉っぱを、こっちに向けている。
ベッドに入ってから、隣のベッドのミレイが言った。
「リリアちゃん」
「なに」
「今日のこと、なんですけど」
少しだけ、間があった。
「……今日は、調子が悪かっただけです」
私は、天井を見たまま答えた。
「知ってる」
暗い部屋の中で、二人で、くすくすと笑った。
たぶん、森の奥の泉に、ちょっとだけ届いたと思う。