「はじまりの洞窟、知ってるだろ」
ハンナさんが依頼書をカウンターに置いた瞬間、私の背筋がぴんと伸びた。
知っている。知っているどころじゃない。
「町の西の、初心者向けのダンジョンさ。新人の冒険者が腕試しに潜るところなんだけど、最近、奥の宝箱を開けた新人が、みんな笑い転げて逃げ帰ってくるんだと。羽毛の腕が生えた宝箱に、くすぐられたって」
「……羽毛の、腕」
「報酬は金貨七枚。あんたたちなら、慣れたもんだろ」
ハンナさんは、なぜか私の顔を見て、にやりと笑った。
二年前。駆け出しだった私は、「初心者向けなんて一人でも余裕」と豪語して、はじまりの洞窟にソロで潜った。いちばん奥で宝箱を見つけて、飛びついた。
宝箱は、羽毛ミミックだった。
羽毛に覆われた腕で、全身をくすぐられた。詠唱なんてできるはずもなく、笑って、笑って、笑い転げて、もうだめだと思ったところで、通りかかった僧侶が浄化の祈りで助けてくれた。
それが、ミレイだった。
ただし、助けに入るまで、妙に時間がかかった。理由を聞いたら、「声がとても楽しそうだったので、救助が必要か判断に迷ってしまって」と言われた。
あれから二年。私はもう、新人じゃない。
「受ける。今度こそ、あのミミックにリベンジしてやる」
私はカウンターを叩いて振り返った。
「ね、ミレイ」
ミレイは、少し遅れて、微笑んだ。
「……ええと。リリアちゃん、私、今日は少し、頭が痛くて」
「え?」
珍しい。ミレイが依頼を渋るなんて、二年間で初めてかもしれない。
「大丈夫? 休んでる?」
「……いえ。大丈夫です。行きましょう」
ミレイはいつもの顔で笑った。いつもの顔、のはずだった。
はじまりの洞窟は、二年前と何も変わっていなかった。
入り口に「初心者歓迎」の木の札。天井の低い通路。ところどころに置かれた、親切すぎる道しるべ。「この先、宝箱あり」。
「懐かしいなあ。あの角を曲がったところで、コウモリにびっくりして尻もちついたのよね」
「そうなんですか」
「そうなの。で、その先の広間に宝箱があって、私、迷わず飛びついたの。今思うと、罠の確認もしないで、ほんと新人だったわ」
私は胸を張った。
「でも、今の私は違う。宝箱を見たら、まず杖でつつく。これ、基本ね」
「さすがです」
ミレイの返事は、いつもより半拍遅かった。
振り返ると、ミレイは私の三歩後ろを歩いていた。いつもは隣か、一歩後ろなのに。それに、通路の脇に置かれた空の木箱の前を通るとき、ミレイはわざわざ反対側の壁ぎりぎりまで寄って歩いていた。
「ミレイ、何してるの」
「……埃が、すごいので」
埃。洞窟なんだから、埃はどこでもすごい。
広間に着いた。
二年前と同じ場所に、宝箱がひとつ、ぽつんと置いてあった。古びた木の箱に、鉄の金具。見た目は、ただの宝箱だ。
「よし。まずは、杖でつつく」
私は宝箱の前にしゃがみこんで、杖の先で、ふたをこつんと叩いた。
反応なし。
もう一回。こつん。
反応なし。
「……あれ? 普通の宝箱?」
ふたに手をかけて、少しだけ持ち上げてみる。中には、銅貨が何枚かと、「初心者のおまもり」と書かれた小袋が入っていた。本当に、普通の宝箱だった。
「なあんだ。ミミックは、もう別の場所に——」
膝の裏に、何かが触れた。
ふわっ、と。
しゃがんでいる私の、膝の裏。曲げた膝の、くぼんだところ。ズボンの布ごしに、何かやわらかいものが、そうっと撫でた。
「ひぁっ!?」
膝の裏の、内側の、骨と骨の間のやわらかいところ。そこから太ももの裏へ、ぞわぞわとくすぐったさが駆け上がった。
振り返る。
広間の隅の、私が「ただの木箱」だと思って素通りした、もうひとつの箱。そのふたが少しだけ開いて、中から、白い羽毛に覆われた腕が、にゅっと伸びていた。
「おや、つつかれたのはお隣でしたなあ」
箱が、しゃべった。のんきな、おじさんみたいな声で。
「ミ、ミミック……!」
「お久しぶりですなあ、お嬢さん。二年ぶりですかな」
羽毛の腕が、もう一度、膝の裏を、さわさわと撫でた。
「ひゃっ、ふふっ、ちょっと、やめっ……!」
膝の裏は、ずるい。くすぐったいのもそうだけど、触られると、力が抜ける。膝が勝手にかくんと折れて、しゃがんだ姿勢がぐらつく。
羽毛の腕は、一本じゃなかった。二本目が、反対の膝の裏にもぐりこむ。両方の膝の裏を、羽根の先で、くるくると円を描くように。
「くっ、くふふっ、ひっ、ひざがっ、ひざがぁっ……ふにゃっ」
膝が、両方いっぺんに抜けた。
私はしゃがんだ姿勢から、ぺたんと尻もちをついた。尻もちをついたら、膝の裏が床から浮いて、ますます無防備になった。羽毛の腕は、伸ばした私の膝の裏に、ぴたりとはりついた。
「あははっ、やっ、やめなさいってばっ、ははっ、あはははっ!」
ズボンの上からなのに、羽毛の一本一本の動きがわかる。膝の裏のくぼみを、羽根の先が、何度も何度もなぞる。足がびくびく跳ねて、勝手に宙を蹴る。
だめ。このままだと、二年前と同じだ。
私は笑いながら、床を手で押して、お尻で後ろへずりずりと下がった。羽毛の腕が追いかけてくる。でも、箱からあまり遠くまでは伸びないらしい。三回ずり下がったところで、腕がぎりぎり届かなくなった。
「ぜえっ、はあっ……」
広間の入り口まで這っていって、壁に背中をつけた。膝の裏が、まだ、ぞわぞわしている。
ミレイは、広間の入り口の、さらに外にいた。
「……リリアちゃん、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない。なんで、そんなに遠いの」
「ええと」ミレイは、ミミックの箱から目をそらした。「埃が、すごいので」
広間の入り口で、私は作戦を考えた。
「あのミミック、箱から遠くまでは腕が伸びない。だったら、近づかないで、遠くから魔法でふたを縛っちゃえばいいのよ。束縛の魔法。ふたが開かなきゃ、腕も出せない」
「なるほど」
「で、縛ったところを、ミレイの浄化で追い払う。完璧でしょ」
「……私の、浄化で」
ミレイの声が、ほんの少し、小さくなった。
私はミレイの顔をのぞきこんだ。
「ねえ、ミレイ。今日、ずっと変じゃない? 箱のそば、ずっと避けてるし」
「避けてなんて、いませんよ」
「埃のせいって言うけど、ミレイ、去年の大掃除のとき、ひつじ亭の屋根裏に平気で潜ってたじゃない」
ミレイは、少しの間、黙った。
それから、いつもの微笑みを、ゆっくり作った。
「リリアちゃんの、二年前のことを思い出していたんです。リリアちゃんが、あの箱にくすぐられて、すごく大変そうだったから」
「……そ、そう?」
「ええ。だから、今日はリリアちゃんが心配で」
なんだ、そういうことか。
ちょっと、嬉しかった。いつも私をおとりにしているミレイが、私の心配をしてくれていたなんて。
……いや、待って。それなら、二年前、もっと早く助けに来てくれてもよかったんじゃない?
聞こうとしたときには、ミレイはもう、祈祷書を開いていた。
広間の入り口から、私は杖をまっすぐミミックの箱に向けた。
距離は十分。腕は届かない。
「見えざる鎖よ、我が声に応え——」
足もとの床が、ぱかっと開いた。
正確には、床に埋めこまれていた、三つ目の箱のふたが開いた。広間の入り口の、私が立っていた石畳。その一枚が、宝箱のふただった。
「なっ——」
落ちた。足から。
腰まで、すっぽり、箱の中に落ちた。
「ようこそ、ようこそ」
足もとの暗がりから、さっきと同じ、のんきな声がした。
「……え、あんた、さっきの箱じゃ」
「あっちは、手だけですわ。本体は、こっちでしてな」
箱のふたが、私の腰のまわりで、ぱくんと閉じた。痛くはない。ふたの縁にも羽毛がびっしり生えていて、ふかふかと腰を包みこむ。でも、抜けない。上半身だけを宝箱から生やした格好で、私は完全に捕まっていた。
箱の中で、何かが、私のブーツの紐をほどいた。
「ちょっ、何して——」
ブーツが、すぽん、と脱がされた。右も、左も。
靴下も、するすると。
素足が、箱の中の、あたたかい暗がりにさらされた。
いやな予感、なんてものじゃなかった。
「や、やめて、それだけは、ほんとに——」
羽根の先が、足の裏に触れた。
かかとの、少し前。土踏まずの、始まるところ。
すうっ、と。羽根が一本、土踏まずのいちばんへこんだところを、かかとからつま先のほうへ、ゆっくりなぞり上げた。
「——っっ!!」
声にならなかった。
足の指が、全部、ぎゅうっと丸まった。足首から、ふくらはぎから、背中まで、電気みたいなくすぐったさが一気に駆け上がって、宝箱から生えた上半身が、びくんと大きくのけぞった。
羽根は、もう一度、同じところをなぞった。今度は、もっとゆっくり。
「ひっ……ひぃぃっ……! あし、あしのうら、だめ、だめっ、ふひっ」
逃げられない。足を引っこめようにも、箱の中は狭くて、どこにも引っこめる場所がない。足の指を丸めても、土踏まずは守れない。土踏まずを床に押しつけようとしても、箱の底にも羽毛が敷きつめられていて、押しつけたところが、またくすぐったい。
「お嬢さん、足の裏、昔とお変わりないですなあ」
「おぼえ、てなくて、いいぃっ……!」
二本目の羽根が、足の指の付け根に来た。
指と指の間の、付け根の、やわらかいふくらみ。そこを、羽根の先が、ちょんちょんと、一本ずつつついていく。親指の付け根、人さし指の付け根、中指の——
「ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ、ひゃうっ!」
つつかれるたびに、足の指が一本ずつ跳ねる。
三本目。四本目。羽根が、増えていく。土踏まずを撫でる羽根。指の付け根をつつく羽根。かかとのまわりをくるくる回る羽根。足の甲を、すうっと撫でる羽根。
そして、全部の羽根が、一斉に、こちょこちょと動きだした。
「——ぶはっ! あっはははははははっ! あーっははははははっ! だめっ、だめだめだめぇっ、あしっ、あしがっ、きゃあっはははははっ!」
決壊した。
宝箱から生えた上半身が、右へ左へ、めちゃくちゃに揺れた。両手で箱の縁をばんばん叩く。叩いても、箱はびくともしない。箱の中で、足が、自分のものじゃないみたいにばたばた暴れている。でも、どこに逃げても、羽根がついてくる。
「ミレイっ! ミレイいぃっ! じょうかっ、じょうかぁぁっ!」
広間の入り口のすぐ外で、ミレイが祈祷書を開いていた。
「は、はい。天におわす、光の御方よ……」
声が、震えていた。
いつものミレイの祈りは、もっと、すらすらしている。今のミレイの声は、ひと言ごとに、つっかえていた。祈祷書を持つ手も、少し、震えていた。
「……その、清き、御光もて……」
遅い。いつもより、ずっと遅い。
「ミレイっ、いそいでっ、いそいでぇっ! ひーっ、ひーっ、ふはっ、ふははっ、もうっ、もうむりぃぃっ!」
羽根が、土踏まずの真ん中で、くるくると小さな円を描きはじめた。いちばん効くところを、見つけられた。
「いっ、いひゃーーっ!? そこっ、そこぉぉっ、ひゃははははははっ!」
だめだ。ミレイを待っていたら、間に合わない。自分でなんとかしないと。
私は笑いながら、杖を握りなおした。束縛の魔法。もう一度。箱のふたを縛って、羽根を止める。
「み、見えざる、くさりよっ……ふひゃっ、わ、我が声に、こたえ……っ」
羽根が、足の指の間に、するりともぐりこんだ。
「——しばれへへへっ!?」
杖の先から、きらきらした光が、ふわっと飛び出した。
光は、ミミックの箱には向かわなかった。くるりと宙を一周して、私の頭の上に降りてきて、私の前髪を、ちょこんと、リボンで結んだ。
かわいい、蝶々結びだった。
「……なんでよぉぉっ!!」
「おや、お似合いですなあ」
ミミックが感心したように言って、お祝いみたいに、羽根を全部いっぺんに動かした。
「ぎゃっはははははははっ! にあってなっ、にあってなくていいからぁぁっ! はひゅっ、ひゅうっ、ひゃーーっ!」
笑いすぎて、目の前がちかちかする。お腹がよじれて、息が吸えない。足の裏から送りこまれてくるくすぐったさが、体じゅうを何周もぐるぐる回って、出口が口しかない。だから、笑うしかない。
縛れないなら、眠らせる。眠りの魔法なら、短い。三節で終わる。
「や、やすらかなる、まどろみよっ……か、の者の、まぶたに……」
羽根が、かかとの丸いところを、くるりとひと撫でした。かかとなんて、硬いから平気だと思っていた。平気じゃなかった。
「——おりへへへっ!?」
杖の先から、紫色のもやが、ふわふわと漂い出た。
もやは、ミミックの箱を素通りして、広間の天井へのぼっていった。天井の岩の割れ目から、コウモリが一匹、ぽとりと落ちてきた。床の上で、すやすやと寝息を立てている。
二年前、私が尻もちをついた、あのコウモリの子孫かもしれない。だとしたら、ちょっとだけ、仕返しができた。
ちっとも、うれしくなかった。
「お嬢さん、いい魔法ですなあ。わしも、ちょいと眠くなってきましたわ」
ミミックは、あくびをしたみたいに、ふたをかぱっと鳴らした。
それから、眠気覚ましとでも言うように、羽根の動かし方を変えた。
今までの、くすぐる動きじゃない。羽根の束で、足の裏全体を、上から下へ、下から上へ、ほうきで掃くみたいに、ざっ、ざっ、と往復させはじめた。一回掃かれるたびに、足の裏じゅうの神経が、いっぺんに目を覚ます。
「ひゃーっはっはっはっはっ!? はくのっ、はくのやめっ、そうじじゃないんだからぁぁっ! ふぎゃっ、ふぎゃははははっ!」
掃く。つつく。くるくる回す。また掃く。足の裏の、どこにも休むところがない。かかとも、土踏まずも、指の付け根も、指の先も、全部、順番に、ときには一斉に、羽根がやってくる。
声が裏返って、もう一度裏返って、自分でも何の音なのかわからない音になる。笑っているのか、泣いているのか、叫んでいるのか。たぶん、全部だった。
「……天におわす、光の御方よ」
ミレイの声が、すぐ近くで聞こえた。
いつの間にか、ミレイが、私のすぐ横に立っていた。宝箱から一歩だけ離れた、ぎりぎりのところ。顔が、少し青い。祈祷書を持つ手が、白くなるくらい、ぎゅっと握られている。
「その清き御光もて、迷える者を、あるべき場所へ導きたまえ」
最後の一節は、震えていなかった。
ミレイの手のひらから、白い光があふれた。
光が広間を満たして、羽根の動きが、ぴたりと止まった。
「おっと、これはかなわん」
ミミックの声がした。足もとの箱のふたが、ぱかんと開く。私は力の抜けた体で、箱の縁にしがみついて、ずるずると外へ這い出した。
裸足の足の裏が、ひんやりした石の床について、ようやく、笑いが止まった。
光の中で、宝箱が、ことことと後ずさりしていく。広間の奥の暗がりへ、逃げていく。
その途中で、ミミックのふたが、ミレイのほうを向いた。
「おや。そっちの姉さんは、前にも——」
「天におわす光の御方よ、その清き御光もて!」
ミレイの二度目の祈りが、ミミックの言葉をかき消した。今までに聞いたことがないくらい、速くて、大きな声だった。
光が弾けて、ミミックは、広間の奥の暗がりに、ぴゅうっと消えていった。
広間が、静かになった。
私は床にへたりこんだまま、ミレイを見上げた。
「……ミレイ。今、ミミック、何て言ってた?」
「さあ。よく聞こえませんでした」
「前にも、って」
「よく聞こえませんでした」
ミレイは、いつもの微笑みで私を見下ろしていた。いつもの微笑み。でも、祈祷書を握る手は、まだ少し、白かった。
「それより、リリアちゃん。リボン、とても似合っていますよ」
「……ほどいて」
「もったいないです」
ミミックが逃げていったあと、広間の奥の暗がりに、空っぽの宝箱が一つ残されていた。ミミックの本体が入っていたほうの箱だ。中身が抜けて、ただの木箱になっている。
何かの手がかりになるかもしれない。私は裸足のまま近づいて、箱の中をのぞきこんだ。
底に、焼き印が押してあった。
『ギルド・ラベンデル出張所 備品』
「……備品?」
ミレイも、私の肩ごしにのぞきこんだ。
二人で、しばらく、その焼き印を見つめた。
「リリアちゃん。これ、つまり」
「新人をくすぐって追い返してたミミックが、ギルドの備品」
「ということは」
「誰かが、わざとここに置いてた」
ギルド・ラベンデル出張所の備品を管理しているのは、一人しかいない。
ギルドに戻って、報告書と一緒に、焼き印のことを話した。
ハンナさんは、金貨七枚を数える手を、止めなかった。止めなかったけれど、一枚、数えまちがえた。
「……備品の管理も、受付の仕事でね」
それだけ言って、ハンナさんは、窓の外を見た。
いつもなら、ここで豪快に笑うはずだった。でも、ハンナさんは、窓の外の、森のほうを、じっと見ていた。
「ハンナさん。あのミミック、新人を鍛えるために、置いてたの?」
「さあね」
「二年前、私が捕まったときも?」
ハンナさんは、ようやく、こっちを向いた。それから、私の前髪のリボンを見て、ふっと笑った。
「似合ってるじゃないか、それ」
話をそらされた。ミレイと、まったく同じそらし方だった。
ひつじ亭への帰り道、ミレイはずっと黙っていた。私も、なんとなく、黙っていた。
夜、ベッドに入ってから、私は天井を見ながら考えた。
前にも、って、何のことだろう。
隣のベッドから、ミレイの寝息が聞こえる。窓辺では、エルダさんにもらったツタの鉢が、月明かりの中で、葉っぱを一枚、こちらに向けていた。
リボンは、まだ、ほどいていない。