「峠に、狐が出るんだよ」
ハンナさんは、カウンターに肘をついて言った。
「隣町へ抜ける山道があるだろ。あそこを通る旅人が、岩陰から出てくる狐に、しっぽでくすぐられるんだと。で、笑い転げてる間に、弁当を持っていかれる」
「弁当を」
「弁当だけ。財布にも荷物にも手をつけない。礼儀正しい泥棒だよ」
礼儀正しい泥棒は、泥棒じゃないのだろうか。私が考えこんでいる横で、ミレイが首をかしげた。
「しっぽで、ということは、普通の狐ではないんですね」
「九本あるんだと」
「九本」
「報酬は金貨八枚」
私はカウンターに身を乗り出した。先月のツタの温室の報酬は、例の詠唱の本の分を埋めるので精いっぱいだった。金貨八枚あれば、冬用のマントが買える。
「受ける。狐なんて、しっぽをつかんじゃえば終わりよ。九本あるなら、九回つかめばいいだけ」
「頼もしいねえ」
ハンナさんがにやりと笑った。この笑い方を見るのは、三回目だ。そろそろ何か学んだほうがいい気がする。
翌朝、ひつじ亭の女将さんが、竹の皮に包んだおにぎりを三つ持たせてくれた。
「狐を釣るんだろ? うちのおにぎりなら、どんな狐でもいちころさ」
中身は塩鮭と、梅と、ラベンダーはちみつで甘く煮た栗。最後のは女将さんの新作らしい。おいしいのかどうか、私にはまだ判断がつかない。
「では、お弁当はリリアちゃんが持ってくださいね」
峠のふもとで、ミレイが包みを差し出した。
「なんで私」
「狐が狙うのは、お弁当を持っている人ですから」
「つまり」
「頼れる前衛です」
「その言葉、もう信用しないことにしたから」
そう言いながらも、私は包みを受け取った。だって、来るとわかっていれば怖くない。しっぽが出てきた瞬間につかむ。それで終わりだ。
峠道は、思ったより険しかった。岩がごろごろした坂を、ジグザグにのぼっていく。振り返ると、ラベンデルの町が、紫の畑に囲まれて小さく見えた。
「いい眺めね。狐も、こんなところでお弁当食べたら最高でしょうね」
「リリアちゃん、狐の気持ちになってどうするんですか」
「敵を知るのは大事なのよ。いい? 狐ってのは警戒心が強いの。だから、こっちが油断してるふりをすれば、向こうから——」
「ほう。油断しておるのか」
すぐ後ろの岩の上から、声がした。
振り返ると、銀色の狐が座っていた。
大きい。羊くらいある。月の光を集めたみたいな毛並みで、目は琥珀色。そして、その背中で、ふさふさのしっぽが九本、扇みたいに広がってゆらゆら揺れていた。
「人の子よ。よい匂いをさせておるな」
狐がしゃべった。当たり前みたいな顔で。
「……あげないわよ」
「では、もらうとしよう」
しっぽの一本が、ふわりと宙を泳いだ。
つかんでやる、と手を伸ばしたときには、もうそこにはなかった。しっぽは私の手の上をするりと越えて、顔の横へ回りこんだ。
耳に、触れた。
毛先が、耳の縁を、すうっとなぞった。
「ひゃっ!」
肩が跳ね上がった。耳の縁から、首の後ろまで、ぞわっと鳥肌が駆け抜ける。
毛先は、耳の縁をなぞり終えると、今度は耳たぶの裏へもぐりこんだ。耳たぶと首の境目の、普段は髪に隠れているところ。そこを、ふさふさの毛が、くすぐるように行ったり来たりする。
しかも、音がする。
耳のすぐそばで、毛がこすれる、さわさわ、しゃわしゃわという音。それが耳の中に直接流れこんできて、触られているところよりも、耳の奥のほうがくすぐったい気がしてくる。
「やっ、ちょっ、ふふっ、音、音がっ……!」
頭を振る。しっぽはついてくる。首をすくめて、耳を肩に押しつける。すると、もう一本のしっぽが、反対側の耳にふわっと乗った。
「ひぅっ!? ふたつめ、ずるい……っ、くふふふっ」
両耳を、同時に。右の耳では縁をくるくると、左の耳では耳たぶの裏をさわさわと。左右で違うリズムでくすぐられて、頭の中がしっちゃかめっちゃかになる。
「よい声じゃ」と狐が目を細めた。「人の子の笑い声は、弁当のよい香りづけになる」
「ならないっ、ならないからっ! あはっ、はっ、やめっ、ひゃははははっ!」
だめ。耳はだめ。耳なんて、くすぐられる場所だと思ったことがなかった。
しっぽの先が、耳の穴の入り口を、ほんの少しだけ、くすっとかすめた。
「ひゃわぁぁっ!?」
自分でも聞いたことのない声が出た。体がびくんと跳ねて、足がもつれた。岩の坂で足がもつれたら、どうなるか。
転がった。
「わあああああっ!?」
ごろごろごろごろ。笑いながら、坂を転がり落ちた。止まったのは、さっきのぼってきたジグザグを、ふたつ分下ったところだった。
空が青い。耳がまだ、じんじんとくすぐったい。
上のほうから、ミレイがのんびり下りてくる足音がした。
「リリアちゃん、大丈夫ですか」
「……大丈夫に見える?」
「とても元気に転がっていました」
私は起き上がって、腕の中の包みを確かめた。竹の皮が破れて、おにぎりが二つになっていた。
岩の上を見上げると、狐が栗のおにぎりをくわえて、満足そうにしっぽを揺らしていた。
「うむ。甘いが、悪くない」
女将さんの新作の、最初の感想だった。
坂の途中の岩に並んで座って、私たちは作戦を立て直した。
「リリアちゃん。私、数えていたんです」とミレイが言った。
「何を」
「しっぽです。リリアちゃんの耳をくすぐっていたのは、二本だけでした。残りの七本は、ずっと狐の背中で揺れていました」
「……それが何?」
「九本全部を使ったら、どうなるのかなと思いまして」
ミレイはにこにこしていた。この顔のときのミレイは、たいてい私が損をする何かを考えている。
「どうもならないわよ。全部使われる前に、こっちが倒す」
私は杖を握り直した。
「炎はだめ。山火事になる。でも、水ならいける。あのふさふさのしっぽを、水の魔法でずぶ濡れにしてやるの。濡れたしっぽは重いし、ふわふわじゃなくなる。くすぐれなくなるってわけ」
「なるほど。さすがリリアちゃんです」
「でしょ?」
ミレイは感心したようにうなずいて、私の手から、残りのおにぎりの包みを取った。
それから、その包みを、私の首にくるりと巻いた。
「……ミレイ?」
「両手が空いたほうが、杖を振りやすいかと思いまして」
「それはそうだけど。なんで首?」
「落とさないように」
首に巻いた竹の皮から、塩鮭と梅の、いい匂いがした。
嫌な予感しかしなかった。
さっきの岩の前に戻ると、狐は待っていたみたいに、同じ場所に座っていた。
「戻ったか。残りも置いていく気になったか」
「ならないわよ! 覚悟しなさい!」
私は杖を構えた。狐がしっぽを広げる。一本、二本——今度は、三本、四本と、次々に宙へ持ち上がっていく。
「清らかなる、水の精よ——」
一本目のしっぽが、首筋に触れた。
耳じゃなかった。首。耳の下から鎖骨のほうへ下りていく、首の横の、筋が一本通っているところ。そこを、毛先が、上から下へ、すうっと撫で下ろした。
「っ……!」
息が詰まった。
さっきの耳とは、くすぐったさの種類が違う。耳は、音と一緒に頭の中に響いてくるくすぐったさだった。首は、もっと直接だ。皮膚が薄いところを、毛の一本一本が通っていくのがわかる。通ったあとが、遅れて、じわあっとむず痒くなる。
肩をすくめて、首を守ろうとする。でも、首に巻いた包みが邪魔で、うまく縮こまれない。
そして、しっぽは首から離れなかった。
「……おにぎりの匂い、か」
狐が鼻をひくひくさせた。
首に巻いた、おにぎりの包み。その匂いに誘われて、しっぽが首のまわりに集まってくる。
ミレイ。あなた、わかっててやったでしょう。
「清らかなる、水の精よっ、我が声に——」
二本目。反対側の首筋。三本目。うなじ。
一本ずつ、順番に。一本が首の右側を撫で下ろすと、次の一本が左側を撫で上げる。三本目はうなじの生え際を、毛先でくるくると円を描く。そのたびに、首から背中へ、ぞくぞくした波が何度も駆け下りていく。
「ふっ、ふふふっ……くっ、ふっ……応え、て……っ」
あと少し。あと一節で、詠唱が完成する。
「——その御手もて、濡らし——」
四本目のしっぽが、あごの下にもぐりこんだ。
あごと喉の境目の、やわらかいところ。猫を撫でるときに、指でくすぐるあの場所を、ふさふさの毛先が、こしょこしょとくすぐった。
「——ぬらしへへへっ!?」
杖の先から、しゅっ、と霧が出た。
霧吹きくらいの、細かい霧だった。それが狐の毛並みに、ふんわりと降りかかった。
狐の毛が、つやつやになった。
ただでさえ月の光みたいだった毛並みが、霧を吸ってしっとりと光り、ブラシをかけたあとみたいにまとまった。狐が満足げに目を細める。
「ほう。よい手入れじゃ」
「手入れしたんじゃないぃっ!」
つやつやになったしっぽは、さっきより、すべりがよかった。
五本目。六本目。七本目。
しっぽが増えるたびに、首のまわりがふさふさで埋まっていく。首の右、首の左、うなじ、あごの下、鎖骨のくぼみ、耳の後ろ。首じゅうのくすぐったいところに、一本ずつ、しっぽの先が配置されていく。
そして、全部の先が、ぴたりと止まった。
一秒。
二秒。
止まっている。止まっているのに、首じゅうに毛先が触れているのがわかる。息をするだけで、喉が動いて、毛先がかすかにこすれる。
来る。絶対に来る。
「……っ、う、動かないなら、動かないで、じっとして——」
八本目と九本目が、最後に加わった。
そして、九本全部が、一斉に動いた。
「——ぶっはははははははっ!! ちょっ、まっ、きゅうほんっ、きゅうほんはっ、むりぃぃっ! あはははっ、あーっはははははっ!」
首の上で、ふさふさの嵐が起きた。
撫で上げて、撫で下ろして、くるくる回って、こしょこしょくすぐる。九本が全部ばらばらに動くから、どこに力を入れても、どこかが無防備になる。首をすくめれば、うなじが伸びる。うなじをかばえば、あごが上がる。あごを引けば、首の横ががら空きになる。
「くびっ、くびがっ、あひゃひゃひゃひゃっ! くびが、とれちゃうぅっ! とれないけどっ、とれちゃうぅぅっ!」
自分でも何を言っているのかわからない。
膝ががくがく笑って、立っていられない。岩に背中を押しつけてずるずると座りこむと、しっぽはそれを追って、首のまわりにふわりと降りてきた。おにぎりの匂いの、首巻き。逃げようがない。
それでも、私は杖を離さなかった。水がだめなら、土だ。岩の壁を立てて、しっぽと私の間を遮ってやる。
「だ、大地よっ、ふひっ、か、堅き、いわおの……っ」
詠唱しようと口を開けるたびに、あごの下のしっぽが、喉をこしょこしょとくすぐる。笑いと詠唱が、喉の中で押しあいへしあいして、言葉がぐちゃぐちゃになる。
「……いわおの、か、かべっ、かべを、たてへへへっ!?」
杖の先が、こつんと地面を叩いた。
足もとに、小石がひとつ、ころんと転がった。
それだけだった。小石は坂をころころと転がっていって、狐の前足にこつんと当たって止まった。狐はそれを、不思議そうに前足でつついた。
「……なんじゃ、これは。くれるのか」
「あげてないぃぃっ!」
叫んだ拍子に、首じゅうのしっぽが、待ってましたとばかりにわしゃわしゃと動いた。叫ぶための息が、全部笑い声に変わって出ていった。
「ミレイっ、ミレイぃっ! これっ、首の、これ、外してぇぇっ!」
少し離れた岩の上で、ミレイは祈祷書を胸に抱えて、私を見ていた。
「外したら、リリアちゃんがおにぎりを守れなくなってしまいます」
「守らなくていいぃっ、ぜんぶっ、ぜんぶあげるからぁっ、いひーっひっひっひっひっ!」
「でも、九本全部、使っていますね」
ミレイが、しみじみとうなずいた。
「リリアちゃん。狐のお腹を見てください」
笑いすぎて涙でにじむ目で、私は狐のほうを見た。
狐は、私の目の前に、ちょこんと座っていた。九本のしっぽを全部、私の首のほうへ伸ばしているせいで、体を少し後ろにそらしている。
そのせいで、真っ白なお腹が、まるごと、こっちに向いていた。
ふかふかの、守るものが何もない、お腹。
「あ」
私は、笑いながら、両手を伸ばした。
指が、狐のお腹に沈んだ。
想像していたより、ずっとやわらかい。ふかふかの白い毛の奥に、ぽかぽかとあたたかいお腹がある。私はそこを、十本の指で、わしゃわしゃと思いきりくすぐった。
「——こ、こやーーーーっ!?」
狐が、聞いたこともない声で鳴いた。
九本のしっぽが、ぴーんと逆立った。首のまわりのふさふさが、一瞬で離れていく。
「なっ、なにを、するっ、こやっ、こやははははっ! そこはっ、そこはならんっ、ならんのじゃぁぁっ!」
「さっきまでの、お返しよっ!」
「こやっ、こやーっはっはっは! こうさんっ、こうさんじゃっ、こうさんするぅっ!」
狐はひっくり返って、四本の足をばたばたさせた。私は笑いすぎて力の入らない指で、それでも容赦なく、お腹をくすぐり続けた。今の私には、狐の気持ちが痛いほどわかる。わかるからこそ、やめない。
「リリアちゃん、そのくらいで」
ミレイに止められて、ようやく手を離した。
狐は仰向けのまま、ぜえぜえと息をしていた。しばらくして起き上がると、乱れた毛並みを、しっぽで恥ずかしそうに整えた。
「……まさか、人の子に腹をやられるとはのう」
「旅人のお弁当、もう取らないって約束して」
「うむ……」狐はしょんぼりと耳を伏せた。「わしとて、好きで人里の弁当を狙っておったわけではない。このところ、森の奥の泉の水が減っておってな」
「泉?」
まただ。この町は、どこに行っても泉が出てくる。
「泉の水が減ると、森の魔力が薄くなる。魔力が薄くなると、腹が減る。腹が減ると……つい、よい匂いのするほうへ、な」
狐はちらりと、私の首の包みを見た。
ミレイが、包みをほどいて、塩鮭のおにぎりを狐の前に置いた。
「よかったら、どうぞ。約束の印です」
「……よいのか」
「はい。その代わり」
ミレイは微笑んだ。
「次からは、ちゃんとお願いしてくださいね」
狐はおにぎりを見て、ミレイを見て、それから、すっと目を細めた。
「そなたは、よい人の子じゃのう。礼をせねばならん」
「いえ、お礼なんて——」
「遠慮するでない」
狐のしっぽが、三本、ふわりとミレイの首に回った。
「えっ」
ミレイの微笑みが、固まった。
「そなたも、よい声で笑いそうじゃと思っておった」
しっぽの先が、ミレイの首筋を、すうっと撫でた。
「ひゃいっ!?」
ミレイの肩が跳ねた。祈祷書が手から落ちた。
「き、狐さん、あの、私は、け、結構ですのでっ……天におわす、ひ、光の御方よ……っ」
ミレイが祈りを唱えはじめた。浄化の祈りだ。でも、しっぽはやめない。三本が、五本に増える。うなじを、あごの下を、首の横を、ふさふさの毛先が、こしょこしょとくすぐる。
「——み、御方よ、ふっ、ふふっ……わ、我らを……ふふふふっ……」
ミレイの声が、震えている。
いつもの上品な微笑みが、端からほろほろ崩れていく。唇をきゅっと結んで、こらえて、こらえて、それでも口の端から笑いがこぼれる。
「ま、まもり、たま……っ、ふ、ふぁ……っ」
私は、身を乗り出していた。
見たことがない。二年いっしょにいて、ミレイがこんな顔をしているのを、一度も見たことがない。
しっぽが、九本全部、ミレイの首に回った。
「——あ、あはっ、あははははっ! だめっ、だめですっ、あははははははっ!」
崩れた。
完全に、崩れた。
ミレイが、声を上げて笑っていた。体を折り曲げて、首をすくめて、涙をにじませて、「あはは」と笑っていた。上品さなんて、どこにもなかった。祈りの言葉は、とっくに笑い声に溶けていた。
「リリアちゃっ、たすけっ、あはははっ、たすけてくださっ、ふふあははははっ!」
「……ミレイ。おにぎりが、首から外れないように、押さえとくわね」
「りりあちゃああんっ!」
私は人生でいちばん、いい笑顔をしていたと思う。
狐がしっぽをほどいたあと、ミレイは岩に手をついて、しばらく肩で息をしていた。
それから、乱れた髪をゆっくり整えて、落ちた祈祷書を拾って、ほこりを払って、いつもの微笑みを顔に戻した。
「……今日は、少し、調子が悪かっただけです」
「今の『あはは』、何?」
「調子が悪かっただけです」
「ミレイ、あなた、もしかして——」
「リリアちゃん。帰りのおにぎり、梅のほうを差し上げますね」
話をそらされた。完全にそらされた。
結局、狐とは契約を結ぶことになった。旅人の弁当は二度と取らない。その代わり、月に一度、ひつじ亭のおにぎりを峠まで届ける。女将さんに話したら、「狐のお得意さんができた」と大喜びで、栗の新作の改良を約束してくれた。
ハンナさんは、報告書を受け取って、金貨八枚を数えて渡してくれた。
「泉の水が減ってる、ねえ」
狐の言葉を伝えたとき、ハンナさんは、数える手を一瞬だけ止めた。先月と同じだった。
「……ま、狐の言うことだ。腹が減ってた言い訳さ」
そう言って笑った顔は、やっぱり、少しだけぎこちなかった。
契約書は、ギルドの棚に大事にしまってある。署名欄には、私の字と、ミレイの字と、それから、朱肉で押された、小さな肉球のはんこ。