ラベンデル冒険譚

第3章峠の九尾

6,851字約11分で読めます2026年10月27日
読みやすさの設定
向き
文字
書体
色

「峠に、狐が出るんだよ」

ハンナさんは、カウンターに肘をついて言った。

「隣町へ抜ける山道があるだろ。あそこを通る旅人が、岩陰から出てくる狐に、しっぽでくすぐられるんだと。で、笑い転げてる間に、弁当を持っていかれる」

「弁当を」

「弁当だけ。財布にも荷物にも手をつけない。礼儀正しい泥棒だよ」

礼儀正しい泥棒は、泥棒じゃないのだろうか。私が考えこんでいる横で、ミレイが首をかしげた。

「しっぽで、ということは、普通の狐ではないんですね」

「九本あるんだと」

「九本」

「報酬は金貨八枚」

私はカウンターに身を乗り出した。先月のツタの温室の報酬は、例の詠唱の本の分を埋めるので精いっぱいだった。金貨八枚あれば、冬用のマントが買える。

「受ける。狐なんて、しっぽをつかんじゃえば終わりよ。九本あるなら、九回つかめばいいだけ」

「頼もしいねえ」

ハンナさんがにやりと笑った。この笑い方を見るのは、三回目だ。そろそろ何か学んだほうがいい気がする。


翌朝、ひつじ亭の女将さんが、竹の皮に包んだおにぎりを三つ持たせてくれた。

「狐を釣るんだろ? うちのおにぎりなら、どんな狐でもいちころさ」

中身は塩鮭と、梅と、ラベンダーはちみつで甘く煮た栗。最後のは女将さんの新作らしい。おいしいのかどうか、私にはまだ判断がつかない。

「では、お弁当はリリアちゃんが持ってくださいね」

峠のふもとで、ミレイが包みを差し出した。

「なんで私」

「狐が狙うのは、お弁当を持っている人ですから」

「つまり」

「頼れる前衛です」

「その言葉、もう信用しないことにしたから」

そう言いながらも、私は包みを受け取った。だって、来るとわかっていれば怖くない。しっぽが出てきた瞬間につかむ。それで終わりだ。

峠道は、思ったより険しかった。岩がごろごろした坂を、ジグザグにのぼっていく。振り返ると、ラベンデルの町が、紫の畑に囲まれて小さく見えた。

「いい眺めね。狐も、こんなところでお弁当食べたら最高でしょうね」

「リリアちゃん、狐の気持ちになってどうするんですか」

「敵を知るのは大事なのよ。いい? 狐ってのは警戒心が強いの。だから、こっちが油断してるふりをすれば、向こうから——」

「ほう。油断しておるのか」

すぐ後ろの岩の上から、声がした。

振り返ると、銀色の狐が座っていた。

大きい。羊くらいある。月の光を集めたみたいな毛並みで、目は琥珀色。そして、その背中で、ふさふさのしっぽが九本、扇みたいに広がってゆらゆら揺れていた。

「人の子よ。よい匂いをさせておるな」

狐がしゃべった。当たり前みたいな顔で。

「……あげないわよ」

「では、もらうとしよう」


しっぽの一本が、ふわりと宙を泳いだ。

つかんでやる、と手を伸ばしたときには、もうそこにはなかった。しっぽは私の手の上をするりと越えて、顔の横へ回りこんだ。

耳に、触れた。

毛先が、耳の縁を、すうっとなぞった。

「ひゃっ!」

肩が跳ね上がった。耳の縁から、首の後ろまで、ぞわっと鳥肌が駆け抜ける。

毛先は、耳の縁をなぞり終えると、今度は耳たぶの裏へもぐりこんだ。耳たぶと首の境目の、普段は髪に隠れているところ。そこを、ふさふさの毛が、くすぐるように行ったり来たりする。

しかも、音がする。

耳のすぐそばで、毛がこすれる、さわさわ、しゃわしゃわという音。それが耳の中に直接流れこんできて、触られているところよりも、耳の奥のほうがくすぐったい気がしてくる。

「やっ、ちょっ、ふふっ、音、音がっ……!」

頭を振る。しっぽはついてくる。首をすくめて、耳を肩に押しつける。すると、もう一本のしっぽが、反対側の耳にふわっと乗った。

「ひぅっ!? ふたつめ、ずるい……っ、くふふふっ」

両耳を、同時に。右の耳では縁をくるくると、左の耳では耳たぶの裏をさわさわと。左右で違うリズムでくすぐられて、頭の中がしっちゃかめっちゃかになる。

「よい声じゃ」と狐が目を細めた。「人の子の笑い声は、弁当のよい香りづけになる」

「ならないっ、ならないからっ! あはっ、はっ、やめっ、ひゃははははっ!」

だめ。耳はだめ。耳なんて、くすぐられる場所だと思ったことがなかった。

しっぽの先が、耳の穴の入り口を、ほんの少しだけ、くすっとかすめた。

「ひゃわぁぁっ!?」

自分でも聞いたことのない声が出た。体がびくんと跳ねて、足がもつれた。岩の坂で足がもつれたら、どうなるか。

転がった。

「わあああああっ!?」

ごろごろごろごろ。笑いながら、坂を転がり落ちた。止まったのは、さっきのぼってきたジグザグを、ふたつ分下ったところだった。

空が青い。耳がまだ、じんじんとくすぐったい。

上のほうから、ミレイがのんびり下りてくる足音がした。

「リリアちゃん、大丈夫ですか」

「……大丈夫に見える?」

「とても元気に転がっていました」

私は起き上がって、腕の中の包みを確かめた。竹の皮が破れて、おにぎりが二つになっていた。

岩の上を見上げると、狐が栗のおにぎりをくわえて、満足そうにしっぽを揺らしていた。

「うむ。甘いが、悪くない」

女将さんの新作の、最初の感想だった。


坂の途中の岩に並んで座って、私たちは作戦を立て直した。

「リリアちゃん。私、数えていたんです」とミレイが言った。

「何を」

「しっぽです。リリアちゃんの耳をくすぐっていたのは、二本だけでした。残りの七本は、ずっと狐の背中で揺れていました」

「……それが何?」

「九本全部を使ったら、どうなるのかなと思いまして」

ミレイはにこにこしていた。この顔のときのミレイは、たいてい私が損をする何かを考えている。

「どうもならないわよ。全部使われる前に、こっちが倒す」

私は杖を握り直した。

「炎はだめ。山火事になる。でも、水ならいける。あのふさふさのしっぽを、水の魔法でずぶ濡れにしてやるの。濡れたしっぽは重いし、ふわふわじゃなくなる。くすぐれなくなるってわけ」

「なるほど。さすがリリアちゃんです」

「でしょ?」

ミレイは感心したようにうなずいて、私の手から、残りのおにぎりの包みを取った。

それから、その包みを、私の首にくるりと巻いた。

「……ミレイ?」

「両手が空いたほうが、杖を振りやすいかと思いまして」

「それはそうだけど。なんで首?」

「落とさないように」

首に巻いた竹の皮から、塩鮭と梅の、いい匂いがした。

嫌な予感しかしなかった。


さっきの岩の前に戻ると、狐は待っていたみたいに、同じ場所に座っていた。

「戻ったか。残りも置いていく気になったか」

「ならないわよ! 覚悟しなさい!」

私は杖を構えた。狐がしっぽを広げる。一本、二本——今度は、三本、四本と、次々に宙へ持ち上がっていく。

「清らかなる、水の精よ——」

一本目のしっぽが、首筋に触れた。

耳じゃなかった。首。耳の下から鎖骨のほうへ下りていく、首の横の、筋が一本通っているところ。そこを、毛先が、上から下へ、すうっと撫で下ろした。

「っ……!」

息が詰まった。

さっきの耳とは、くすぐったさの種類が違う。耳は、音と一緒に頭の中に響いてくるくすぐったさだった。首は、もっと直接だ。皮膚が薄いところを、毛の一本一本が通っていくのがわかる。通ったあとが、遅れて、じわあっとむず痒くなる。

肩をすくめて、首を守ろうとする。でも、首に巻いた包みが邪魔で、うまく縮こまれない。

そして、しっぽは首から離れなかった。

「……おにぎりの匂い、か」

狐が鼻をひくひくさせた。

首に巻いた、おにぎりの包み。その匂いに誘われて、しっぽが首のまわりに集まってくる。

ミレイ。あなた、わかっててやったでしょう。

「清らかなる、水の精よっ、我が声に——」

二本目。反対側の首筋。三本目。うなじ。

一本ずつ、順番に。一本が首の右側を撫で下ろすと、次の一本が左側を撫で上げる。三本目はうなじの生え際を、毛先でくるくると円を描く。そのたびに、首から背中へ、ぞくぞくした波が何度も駆け下りていく。

「ふっ、ふふふっ……くっ、ふっ……応え、て……っ」

あと少し。あと一節で、詠唱が完成する。

「——その御手もて、濡らし——」

四本目のしっぽが、あごの下にもぐりこんだ。

あごと喉の境目の、やわらかいところ。猫を撫でるときに、指でくすぐるあの場所を、ふさふさの毛先が、こしょこしょとくすぐった。

「——ぬらしへへへっ!?」

杖の先から、しゅっ、と霧が出た。

霧吹きくらいの、細かい霧だった。それが狐の毛並みに、ふんわりと降りかかった。

狐の毛が、つやつやになった。

ただでさえ月の光みたいだった毛並みが、霧を吸ってしっとりと光り、ブラシをかけたあとみたいにまとまった。狐が満足げに目を細める。

「ほう。よい手入れじゃ」

「手入れしたんじゃないぃっ!」

つやつやになったしっぽは、さっきより、すべりがよかった。

五本目。六本目。七本目。

しっぽが増えるたびに、首のまわりがふさふさで埋まっていく。首の右、首の左、うなじ、あごの下、鎖骨のくぼみ、耳の後ろ。首じゅうのくすぐったいところに、一本ずつ、しっぽの先が配置されていく。

そして、全部の先が、ぴたりと止まった。

一秒。

二秒。

止まっている。止まっているのに、首じゅうに毛先が触れているのがわかる。息をするだけで、喉が動いて、毛先がかすかにこすれる。

来る。絶対に来る。

「……っ、う、動かないなら、動かないで、じっとして——」

八本目と九本目が、最後に加わった。

そして、九本全部が、一斉に動いた。

「——ぶっはははははははっ!! ちょっ、まっ、きゅうほんっ、きゅうほんはっ、むりぃぃっ! あはははっ、あーっはははははっ!」

首の上で、ふさふさの嵐が起きた。

撫で上げて、撫で下ろして、くるくる回って、こしょこしょくすぐる。九本が全部ばらばらに動くから、どこに力を入れても、どこかが無防備になる。首をすくめれば、うなじが伸びる。うなじをかばえば、あごが上がる。あごを引けば、首の横ががら空きになる。

「くびっ、くびがっ、あひゃひゃひゃひゃっ! くびが、とれちゃうぅっ! とれないけどっ、とれちゃうぅぅっ!」

自分でも何を言っているのかわからない。

膝ががくがく笑って、立っていられない。岩に背中を押しつけてずるずると座りこむと、しっぽはそれを追って、首のまわりにふわりと降りてきた。おにぎりの匂いの、首巻き。逃げようがない。

それでも、私は杖を離さなかった。水がだめなら、土だ。岩の壁を立てて、しっぽと私の間を遮ってやる。

「だ、大地よっ、ふひっ、か、堅き、いわおの……っ」

詠唱しようと口を開けるたびに、あごの下のしっぽが、喉をこしょこしょとくすぐる。笑いと詠唱が、喉の中で押しあいへしあいして、言葉がぐちゃぐちゃになる。

「……いわおの、か、かべっ、かべを、たてへへへっ!?」

杖の先が、こつんと地面を叩いた。

足もとに、小石がひとつ、ころんと転がった。

それだけだった。小石は坂をころころと転がっていって、狐の前足にこつんと当たって止まった。狐はそれを、不思議そうに前足でつついた。

「……なんじゃ、これは。くれるのか」

「あげてないぃぃっ!」

叫んだ拍子に、首じゅうのしっぽが、待ってましたとばかりにわしゃわしゃと動いた。叫ぶための息が、全部笑い声に変わって出ていった。

「ミレイっ、ミレイぃっ! これっ、首の、これ、外してぇぇっ!」

少し離れた岩の上で、ミレイは祈祷書を胸に抱えて、私を見ていた。

「外したら、リリアちゃんがおにぎりを守れなくなってしまいます」

「守らなくていいぃっ、ぜんぶっ、ぜんぶあげるからぁっ、いひーっひっひっひっひっ!」

「でも、九本全部、使っていますね」

ミレイが、しみじみとうなずいた。

「リリアちゃん。狐のお腹を見てください」

笑いすぎて涙でにじむ目で、私は狐のほうを見た。

狐は、私の目の前に、ちょこんと座っていた。九本のしっぽを全部、私の首のほうへ伸ばしているせいで、体を少し後ろにそらしている。

そのせいで、真っ白なお腹が、まるごと、こっちに向いていた。

ふかふかの、守るものが何もない、お腹。

「あ」

私は、笑いながら、両手を伸ばした。


指が、狐のお腹に沈んだ。

想像していたより、ずっとやわらかい。ふかふかの白い毛の奥に、ぽかぽかとあたたかいお腹がある。私はそこを、十本の指で、わしゃわしゃと思いきりくすぐった。

「——こ、こやーーーーっ!?」

狐が、聞いたこともない声で鳴いた。

九本のしっぽが、ぴーんと逆立った。首のまわりのふさふさが、一瞬で離れていく。

「なっ、なにを、するっ、こやっ、こやははははっ! そこはっ、そこはならんっ、ならんのじゃぁぁっ!」

「さっきまでの、お返しよっ!」

「こやっ、こやーっはっはっは! こうさんっ、こうさんじゃっ、こうさんするぅっ!」

狐はひっくり返って、四本の足をばたばたさせた。私は笑いすぎて力の入らない指で、それでも容赦なく、お腹をくすぐり続けた。今の私には、狐の気持ちが痛いほどわかる。わかるからこそ、やめない。

「リリアちゃん、そのくらいで」

ミレイに止められて、ようやく手を離した。

狐は仰向けのまま、ぜえぜえと息をしていた。しばらくして起き上がると、乱れた毛並みを、しっぽで恥ずかしそうに整えた。

「……まさか、人の子に腹をやられるとはのう」

「旅人のお弁当、もう取らないって約束して」

「うむ……」狐はしょんぼりと耳を伏せた。「わしとて、好きで人里の弁当を狙っておったわけではない。このところ、森の奥の泉の水が減っておってな」

「泉?」

まただ。この町は、どこに行っても泉が出てくる。

「泉の水が減ると、森の魔力が薄くなる。魔力が薄くなると、腹が減る。腹が減ると……つい、よい匂いのするほうへ、な」

狐はちらりと、私の首の包みを見た。

ミレイが、包みをほどいて、塩鮭のおにぎりを狐の前に置いた。

「よかったら、どうぞ。約束の印です」

「……よいのか」

「はい。その代わり」

ミレイは微笑んだ。

「次からは、ちゃんとお願いしてくださいね」

狐はおにぎりを見て、ミレイを見て、それから、すっと目を細めた。

「そなたは、よい人の子じゃのう。礼をせねばならん」

「いえ、お礼なんて——」

「遠慮するでない」

狐のしっぽが、三本、ふわりとミレイの首に回った。

「えっ」

ミレイの微笑みが、固まった。

「そなたも、よい声で笑いそうじゃと思っておった」

しっぽの先が、ミレイの首筋を、すうっと撫でた。

「ひゃいっ!?」

ミレイの肩が跳ねた。祈祷書が手から落ちた。

「き、狐さん、あの、私は、け、結構ですのでっ……天におわす、ひ、光の御方よ……っ」

ミレイが祈りを唱えはじめた。浄化の祈りだ。でも、しっぽはやめない。三本が、五本に増える。うなじを、あごの下を、首の横を、ふさふさの毛先が、こしょこしょとくすぐる。

「——み、御方よ、ふっ、ふふっ……わ、我らを……ふふふふっ……」

ミレイの声が、震えている。

いつもの上品な微笑みが、端からほろほろ崩れていく。唇をきゅっと結んで、こらえて、こらえて、それでも口の端から笑いがこぼれる。

「ま、まもり、たま……っ、ふ、ふぁ……っ」

私は、身を乗り出していた。

見たことがない。二年いっしょにいて、ミレイがこんな顔をしているのを、一度も見たことがない。

しっぽが、九本全部、ミレイの首に回った。

「——あ、あはっ、あははははっ! だめっ、だめですっ、あははははははっ!」

崩れた。

完全に、崩れた。

ミレイが、声を上げて笑っていた。体を折り曲げて、首をすくめて、涙をにじませて、「あはは」と笑っていた。上品さなんて、どこにもなかった。祈りの言葉は、とっくに笑い声に溶けていた。

「リリアちゃっ、たすけっ、あはははっ、たすけてくださっ、ふふあははははっ!」

「……ミレイ。おにぎりが、首から外れないように、押さえとくわね」

「りりあちゃああんっ!」

私は人生でいちばん、いい笑顔をしていたと思う。


狐がしっぽをほどいたあと、ミレイは岩に手をついて、しばらく肩で息をしていた。

それから、乱れた髪をゆっくり整えて、落ちた祈祷書を拾って、ほこりを払って、いつもの微笑みを顔に戻した。

「……今日は、少し、調子が悪かっただけです」

「今の『あはは』、何?」

「調子が悪かっただけです」

「ミレイ、あなた、もしかして——」

「リリアちゃん。帰りのおにぎり、梅のほうを差し上げますね」

話をそらされた。完全にそらされた。

結局、狐とは契約を結ぶことになった。旅人の弁当は二度と取らない。その代わり、月に一度、ひつじ亭のおにぎりを峠まで届ける。女将さんに話したら、「狐のお得意さんができた」と大喜びで、栗の新作の改良を約束してくれた。

ハンナさんは、報告書を受け取って、金貨八枚を数えて渡してくれた。

「泉の水が減ってる、ねえ」

狐の言葉を伝えたとき、ハンナさんは、数える手を一瞬だけ止めた。先月と同じだった。

「……ま、狐の言うことだ。腹が減ってた言い訳さ」

そう言って笑った顔は、やっぱり、少しだけぎこちなかった。

契約書は、ギルドの棚に大事にしまってある。署名欄には、私の字と、ミレイの字と、それから、朱肉で押された、小さな肉球のはんこ。