ラベンデル冒険譚

エピローグ笑い声の届け先

3,891字約6分で読めます2026年10月27日
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家賃三か月分の報酬は、ひと月で、半分になった。

「ミレイ。私たちの全財産、いくら?」

ひつじ亭の朝。シチューのスプーンを置いて、私は向かいの席に聞いた。いつかの朝と、同じ席で、同じ質問。

「金貨四枚と、銀貨が少しです」ミレイはパンをちぎりながら答えた。「それから、リリアちゃんが先週買った、『守り人のための心得 上・下巻』」

「あれは必要経費よ」

「上巻の三ページ目で寝てましたよね」

「……下巻から読む派なの」

ミレイは何も言わずに微笑んだ。この人の「何も言わない」は、二年たっても、やっぱりいちばん効く。

窓辺では、ツタの鉢が、朝日を浴びて葉っぱをそよがせている。泉の水を吸ってから、葉っぱは倍に増えた。ついでに、毎朝、私のベッドのほうへ少しずつ伸びてくる。ミレイはそれを「なついている」と言う。私は「狙われている」と思う。


泉がよみがえってから、ひと月。

私たちは、相変わらず冒険者を続けている。羊探しも、畑荒らしの退治も、ハンナさんが回してくる変な依頼も、前と同じように受けている。

ひとつだけ、変わったことがある。

「泉の守り人、見習い」

ギルドのカウンターで、ハンナさんは、真新しい木の札を二枚、私たちの前に置いた。札には、泉の紋章が焼きつけてある。はじまりの洞窟の宝箱の底にあった、あの焼き印と同じ紋章だ。

「見習い期間は一年。仕事は月に一度。で、今日がその、最初の仕事の日だ」

「どんな仕事?」と私は聞いた。

ハンナさんは、にやりと笑った。

この笑い方を見るのは、何回目だろう。もう数えるのはやめた。

「泉に、笑い声を届けること」

「……具体的には」

「森の奥へ行って、泉のほとりで、いい声で笑ってくること」

私は、ゆっくりとミレイの顔を見た。ミレイは、ゆっくりと私の顔を見た。

「つまり、それって」

「くすぐられに行く、ということですね」とミレイが言った。

「仕事内容がおかしい!」

「おかしくないさ。あたしは二十年、それをやってきたんだ」ハンナさんは胸を張った。「報酬は、ひと月ごとに家賃ひと月分。悪くないだろ」

悪くない。悪くないのが、悔しい。


森の奥へ続く道は、ひと月前とは、別の場所みたいだった。

木の葉は濃い緑で、足もとの草はやわらかく、どこへ行っても鳥が鳴いている。風が吹くたびに、森じゅうの葉っぱがさわさわと鳴って、まるで森が、くすくす笑っているみたいだった。

泉のほとりには、もう、みんながそろっていた。

岩の上には、峠の狐。九本のしっぽを、ゆったりと揺らしている。月一のおにぎりで、毛並みがまた少し、つやつやになった気がする。

泉のまわりの岩には、エルダさんの温室から株分けしたツタが、のびのびと絡まっている。

広場の隅には、見覚えのある木箱。ふたが、ぱかっと開いた。

「どうも、守り人のお嬢さん方。今月も、よろしゅう」

それから、泉の上をふわふわと漂う、白い綿毛たち。ひと月前より数が増えて、丸々と太っていた。

泉は、水盤のふちまで、たっぷりと水をたたえていた。壁画の魔女が、水面に映って、楽しそうに笑っている。

「……みんな、待ってたの?」

「待っておったとも」狐が目を細めた。「月に一度の、楽しみじゃからのう」

私は深呼吸をした。それから、肩にかけてきた紫のショールを、ぎゅっと握った。マーサさんのお守りは、あの日から、ずっと返しそびれている。マーサさんは「持っていて」と笑っていた。

「……いいわよ。仕事だもんね」

私は泉のほとりの、やわらかい苔の上に、仰向けに寝転がった。

ひと月前と、同じ場所。

違うのは、隣に、もうひとり寝転がったことだった。

「……ミレイ?」

「見習いは、二人ですから」

ミレイは、祈祷書を岩の上に置いて、私の隣で、仰向けになっていた。いつもの微笑みだった。でも、両手は、ちゃんと頭の上に伸ばしてあった。

隠さない、ということだ。

「では、ゆくぞ」


最初に来たのは、綿毛たちだった。

ふわふわと降りてきて、私とミレイの、伸ばした手のひらに、ころん、と乗る。それから、指の間に、ひとつずつ、もぐりこんでいく。

「ふっ、ふふっ……」

「ふ、ふふっ……」

二人分の声が、重なった。

隣を見ると、ミレイが、唇の端をきゅっと結んで、こらえていた。私も、たぶん同じ顔をしていた。

ツタが、しゅるしゅると伸びてきた。二人の腰に、一本ずつ巻きつく。脇腹に、産毛の葉っぱ。さわさわ、さわさわ。

「くふっ、くふふっ……ちょっ、ツタっ、うちの子でしょ、あんたっ……!」

「この子たちは、あの鉢の、親戚ですからね……ふふっ、ふぁっ……」

ミミックの羽根が、私たちの足もとに。ブーツは、最初から脱いできた。経験から学んだのだ。学んだ結果が、素足を差し出すことなのは、どうかと思うけれど。

羽根が、二人の土踏まずを、同時に、すうっとなぞった。

「ひゃうぅっ!?」

「ひゃいっ!?」

声が、揃った。

それがおかしくて、私たちは顔を見合わせて、ぷっと吹き出した。

吹き出したら、もう止まらなかった。

狐のしっぽが、九本、ふわりと持ち上がった。四本と、五本に分かれる。四本が私の首に、五本がミレイの首に。

「なんでっ、ミレイのほうが一本多いのよっ!」

「こちらの姉さんは、まだ借りがあるからのう」

「か、借りなんてっ、ありませっ……ふふふふっ、あはっ、あははっ……!」

しっぽが、一斉に動いた。

「——ぶっははははははははっ!! くびっ、くびはずるいっ、あっはははははははっ!」

「——あっははははははっ!! だめっ、だめですっ、くすぐったいですぅぅっ、あはははははっ!」

二人の笑い声が、泉のほとりに響いた。

笑いながら、私は横目でミレイを見た。

ミレイが、笑っていた。こらえないで。唇を結ばないで。髪を苔の上に広げて、目尻に涙をためて、お腹の底から。二年間、私の隣で、ずっと見たかった顔だった。

見とれていたら、ツタの先端が、私の脇腹から、肋骨を一段ずつのぼりはじめた。

「あっ、まって、それはっ、それはまってっ……!」

知っている。この先に何が来るか、温室で、泉で、もう二回も知っている。知っているのに、のぼってくる一段ごとに、体がびくびく跳ねる。

あと一段。

先端が、脇の下のくぼみに、すとんと落ちた。くるくる、くるくる。

「——ひゃーっはははははっ!? わきはっ、わきはなしって、ひゃひゃひゃひゃっ、いってないけどっ、なしぃぃっ!」

「リ、リリアちゃんっ、こっちにもっ、こっちにも来てますっ、ひゃっ、ひゃあっはははははっ!」

ミレイの脇の下にも、別の先端が、くるりと落ちていた。

ミミックの羽根が、土踏まずから、足の指の間へ。狐のしっぽが、首筋から、耳の縁へ。綿毛が、手のひらから、お腹の上へ、ころころと転がっていく。

「ふぎゃっ、おなかっ、おなかはっ、だめっ、あっひゃははははっ!」

「みんなっ、ちょっとっ、ちょっとだけ休憩をっ、ふふっ、あはっ、あははははははっ!」

「休憩は、ないのう」と狐が言った。

「仕事ですからなあ」とミミックが言った。

「仕事内容が、おかしいぃぃっ!」

二人で同時に叫んで、それがまたおかしくて、笑い声が一段、大きくなった。

首には九本のしっぽ。脇腹には産毛のツタ。足の裏にはミミックの羽根。手のひらと指の間には綿毛。苔の上で、私たちはばたばたと手足を跳ねさせて、転がって、ぶつかって、また笑った。

「ひーっ、ひっ、ミレイっ、肘っ、肘が、脇腹にっ、ひゃははははっ!」

「リリアちゃんの足がっ、私の膝の裏にっ、あっ、あはっ、そこっ、だめぇっ、ふふあははははっ!」

自分がくすぐられているのか、ミレイにぶつかってくすぐったいのか、もう、わからない。どっちでもいい。

泉の水面が、きらきらと揺れていた。底から、こぽこぽと、新しい水が湧き上がってくる。笑い声が届くたびに、泡がひとつ、ふたつと、楽しそうに弾けた。

壁画の魔女が、水面の中で、私たちと一緒に笑っている気がした。


どのくらい笑っていただろう。

狐のしっぽがほどけて、ツタがゆるんで、羽根と綿毛が離れていったとき、私たちは苔の上で、並んで大の字になっていた。

空が、木の葉のすきまから、青く見える。お腹が痛い。頬が痛い。涙で、耳の中までびしょびしょだ。

隣で、ミレイが、ぜえぜえと息をしながら、まだくすくす笑っていた。

「……ミレイ」

「……はい」

「今の、すごい声だった」

「リリアちゃんのほうが、すごかったです」

「いや、ミレイのほうが」

「リリアちゃんです」

「ミレイ」

言い合っているうちに、また、二人で笑ってしまった。泉が、こぽ、と鳴った。


帰り道、夕暮れの森を、二人で並んで歩いた。

ミレイの祈祷書は、ミレイの腕の中。ショールは、私の肩の上。家賃ひと月分の報酬は、ハンナさんの給料から。

ラベンデルの町が見えてきたころ、ミレイが、ふと立ち止まった。

「リリアちゃん。さっき、ツタに脇腹をくすぐられたとき、『うちの子でしょ』って言ってましたね」

「言った」

「あの子のこと、ちゃんと、うちの子だと思ってたんですね」

「……ちがう。言葉のあやよ」

「ふふ」

ミレイは、楽しそうに笑った。前より、ずっと、こらえない笑い方だった。

私は、なんだか顔が熱くなって、前を向いて歩きだした。

「それに、今日の私は、ちょっと、あれだったから」

「あれ、とは」

私は、振り返らずに言った。

「……今日は、調子が悪かっただけ」

後ろで、ミレイが、くすっと笑う声がした。

「知ってます」

ラベンデルの町に、明かりがひとつ、またひとつと灯りはじめていた。どこかの家から、子どもの笑い声が聞こえてくる。ひつじ亭の窓から、シチューの匂いが流れてくる。

今夜も、この町は、よく笑っている。

たぶん、森の奥の泉まで、ちゃんと届いている。