家賃三か月分の報酬は、ひと月で、半分になった。
「ミレイ。私たちの全財産、いくら?」
ひつじ亭の朝。シチューのスプーンを置いて、私は向かいの席に聞いた。いつかの朝と、同じ席で、同じ質問。
「金貨四枚と、銀貨が少しです」ミレイはパンをちぎりながら答えた。「それから、リリアちゃんが先週買った、『守り人のための心得 上・下巻』」
「あれは必要経費よ」
「上巻の三ページ目で寝てましたよね」
「……下巻から読む派なの」
ミレイは何も言わずに微笑んだ。この人の「何も言わない」は、二年たっても、やっぱりいちばん効く。
窓辺では、ツタの鉢が、朝日を浴びて葉っぱをそよがせている。泉の水を吸ってから、葉っぱは倍に増えた。ついでに、毎朝、私のベッドのほうへ少しずつ伸びてくる。ミレイはそれを「なついている」と言う。私は「狙われている」と思う。
泉がよみがえってから、ひと月。
私たちは、相変わらず冒険者を続けている。羊探しも、畑荒らしの退治も、ハンナさんが回してくる変な依頼も、前と同じように受けている。
ひとつだけ、変わったことがある。
「泉の守り人、見習い」
ギルドのカウンターで、ハンナさんは、真新しい木の札を二枚、私たちの前に置いた。札には、泉の紋章が焼きつけてある。はじまりの洞窟の宝箱の底にあった、あの焼き印と同じ紋章だ。
「見習い期間は一年。仕事は月に一度。で、今日がその、最初の仕事の日だ」
「どんな仕事?」と私は聞いた。
ハンナさんは、にやりと笑った。
この笑い方を見るのは、何回目だろう。もう数えるのはやめた。
「泉に、笑い声を届けること」
「……具体的には」
「森の奥へ行って、泉のほとりで、いい声で笑ってくること」
私は、ゆっくりとミレイの顔を見た。ミレイは、ゆっくりと私の顔を見た。
「つまり、それって」
「くすぐられに行く、ということですね」とミレイが言った。
「仕事内容がおかしい!」
「おかしくないさ。あたしは二十年、それをやってきたんだ」ハンナさんは胸を張った。「報酬は、ひと月ごとに家賃ひと月分。悪くないだろ」
悪くない。悪くないのが、悔しい。
森の奥へ続く道は、ひと月前とは、別の場所みたいだった。
木の葉は濃い緑で、足もとの草はやわらかく、どこへ行っても鳥が鳴いている。風が吹くたびに、森じゅうの葉っぱがさわさわと鳴って、まるで森が、くすくす笑っているみたいだった。
泉のほとりには、もう、みんながそろっていた。
岩の上には、峠の狐。九本のしっぽを、ゆったりと揺らしている。月一のおにぎりで、毛並みがまた少し、つやつやになった気がする。
泉のまわりの岩には、エルダさんの温室から株分けしたツタが、のびのびと絡まっている。
広場の隅には、見覚えのある木箱。ふたが、ぱかっと開いた。
「どうも、守り人のお嬢さん方。今月も、よろしゅう」
それから、泉の上をふわふわと漂う、白い綿毛たち。ひと月前より数が増えて、丸々と太っていた。
泉は、水盤のふちまで、たっぷりと水をたたえていた。壁画の魔女が、水面に映って、楽しそうに笑っている。
「……みんな、待ってたの?」
「待っておったとも」狐が目を細めた。「月に一度の、楽しみじゃからのう」
私は深呼吸をした。それから、肩にかけてきた紫のショールを、ぎゅっと握った。マーサさんのお守りは、あの日から、ずっと返しそびれている。マーサさんは「持っていて」と笑っていた。
「……いいわよ。仕事だもんね」
私は泉のほとりの、やわらかい苔の上に、仰向けに寝転がった。
ひと月前と、同じ場所。
違うのは、隣に、もうひとり寝転がったことだった。
「……ミレイ?」
「見習いは、二人ですから」
ミレイは、祈祷書を岩の上に置いて、私の隣で、仰向けになっていた。いつもの微笑みだった。でも、両手は、ちゃんと頭の上に伸ばしてあった。
隠さない、ということだ。
「では、ゆくぞ」
最初に来たのは、綿毛たちだった。
ふわふわと降りてきて、私とミレイの、伸ばした手のひらに、ころん、と乗る。それから、指の間に、ひとつずつ、もぐりこんでいく。
「ふっ、ふふっ……」
「ふ、ふふっ……」
二人分の声が、重なった。
隣を見ると、ミレイが、唇の端をきゅっと結んで、こらえていた。私も、たぶん同じ顔をしていた。
ツタが、しゅるしゅると伸びてきた。二人の腰に、一本ずつ巻きつく。脇腹に、産毛の葉っぱ。さわさわ、さわさわ。
「くふっ、くふふっ……ちょっ、ツタっ、うちの子でしょ、あんたっ……!」
「この子たちは、あの鉢の、親戚ですからね……ふふっ、ふぁっ……」
ミミックの羽根が、私たちの足もとに。ブーツは、最初から脱いできた。経験から学んだのだ。学んだ結果が、素足を差し出すことなのは、どうかと思うけれど。
羽根が、二人の土踏まずを、同時に、すうっとなぞった。
「ひゃうぅっ!?」
「ひゃいっ!?」
声が、揃った。
それがおかしくて、私たちは顔を見合わせて、ぷっと吹き出した。
吹き出したら、もう止まらなかった。
狐のしっぽが、九本、ふわりと持ち上がった。四本と、五本に分かれる。四本が私の首に、五本がミレイの首に。
「なんでっ、ミレイのほうが一本多いのよっ!」
「こちらの姉さんは、まだ借りがあるからのう」
「か、借りなんてっ、ありませっ……ふふふふっ、あはっ、あははっ……!」
しっぽが、一斉に動いた。
「——ぶっははははははははっ!! くびっ、くびはずるいっ、あっはははははははっ!」
「——あっははははははっ!! だめっ、だめですっ、くすぐったいですぅぅっ、あはははははっ!」
二人の笑い声が、泉のほとりに響いた。
笑いながら、私は横目でミレイを見た。
ミレイが、笑っていた。こらえないで。唇を結ばないで。髪を苔の上に広げて、目尻に涙をためて、お腹の底から。二年間、私の隣で、ずっと見たかった顔だった。
見とれていたら、ツタの先端が、私の脇腹から、肋骨を一段ずつのぼりはじめた。
「あっ、まって、それはっ、それはまってっ……!」
知っている。この先に何が来るか、温室で、泉で、もう二回も知っている。知っているのに、のぼってくる一段ごとに、体がびくびく跳ねる。
あと一段。
先端が、脇の下のくぼみに、すとんと落ちた。くるくる、くるくる。
「——ひゃーっはははははっ!? わきはっ、わきはなしって、ひゃひゃひゃひゃっ、いってないけどっ、なしぃぃっ!」
「リ、リリアちゃんっ、こっちにもっ、こっちにも来てますっ、ひゃっ、ひゃあっはははははっ!」
ミレイの脇の下にも、別の先端が、くるりと落ちていた。
ミミックの羽根が、土踏まずから、足の指の間へ。狐のしっぽが、首筋から、耳の縁へ。綿毛が、手のひらから、お腹の上へ、ころころと転がっていく。
「ふぎゃっ、おなかっ、おなかはっ、だめっ、あっひゃははははっ!」
「みんなっ、ちょっとっ、ちょっとだけ休憩をっ、ふふっ、あはっ、あははははははっ!」
「休憩は、ないのう」と狐が言った。
「仕事ですからなあ」とミミックが言った。
「仕事内容が、おかしいぃぃっ!」
二人で同時に叫んで、それがまたおかしくて、笑い声が一段、大きくなった。
首には九本のしっぽ。脇腹には産毛のツタ。足の裏にはミミックの羽根。手のひらと指の間には綿毛。苔の上で、私たちはばたばたと手足を跳ねさせて、転がって、ぶつかって、また笑った。
「ひーっ、ひっ、ミレイっ、肘っ、肘が、脇腹にっ、ひゃははははっ!」
「リリアちゃんの足がっ、私の膝の裏にっ、あっ、あはっ、そこっ、だめぇっ、ふふあははははっ!」
自分がくすぐられているのか、ミレイにぶつかってくすぐったいのか、もう、わからない。どっちでもいい。
泉の水面が、きらきらと揺れていた。底から、こぽこぽと、新しい水が湧き上がってくる。笑い声が届くたびに、泡がひとつ、ふたつと、楽しそうに弾けた。
壁画の魔女が、水面の中で、私たちと一緒に笑っている気がした。
どのくらい笑っていただろう。
狐のしっぽがほどけて、ツタがゆるんで、羽根と綿毛が離れていったとき、私たちは苔の上で、並んで大の字になっていた。
空が、木の葉のすきまから、青く見える。お腹が痛い。頬が痛い。涙で、耳の中までびしょびしょだ。
隣で、ミレイが、ぜえぜえと息をしながら、まだくすくす笑っていた。
「……ミレイ」
「……はい」
「今の、すごい声だった」
「リリアちゃんのほうが、すごかったです」
「いや、ミレイのほうが」
「リリアちゃんです」
「ミレイ」
言い合っているうちに、また、二人で笑ってしまった。泉が、こぽ、と鳴った。
帰り道、夕暮れの森を、二人で並んで歩いた。
ミレイの祈祷書は、ミレイの腕の中。ショールは、私の肩の上。家賃ひと月分の報酬は、ハンナさんの給料から。
ラベンデルの町が見えてきたころ、ミレイが、ふと立ち止まった。
「リリアちゃん。さっき、ツタに脇腹をくすぐられたとき、『うちの子でしょ』って言ってましたね」
「言った」
「あの子のこと、ちゃんと、うちの子だと思ってたんですね」
「……ちがう。言葉のあやよ」
「ふふ」
ミレイは、楽しそうに笑った。前より、ずっと、こらえない笑い方だった。
私は、なんだか顔が熱くなって、前を向いて歩きだした。
「それに、今日の私は、ちょっと、あれだったから」
「あれ、とは」
私は、振り返らずに言った。
「……今日は、調子が悪かっただけ」
後ろで、ミレイが、くすっと笑う声がした。
「知ってます」
ラベンデルの町に、明かりがひとつ、またひとつと灯りはじめていた。どこかの家から、子どもの笑い声が聞こえてくる。ひつじ亭の窓から、シチューの匂いが流れてくる。
今夜も、この町は、よく笑っている。
たぶん、森の奥の泉まで、ちゃんと届いている。