こちょこちょ研究部

第6章展示会のデモ

8,503字約14分で読めます2026年10月29日
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展示会場は、地下の開発部が百個は入りそうなくらい広かった。

天井が高くて、どこまでも明るい。見わたすかぎりブースが並んでいて、開場前なのに、もう台車の音と、呼びこみの練習の声でいっぱいだった。

こちょ研のブースは、その一番すみっこにあった。

畳二枚分くらいの、小さな四角。品質保証部の推薦枠で、鶴見さんが取ってくれた場所だ。看板には「笑顔ケア開発部」と、ちゃんと正式な名前が書いてある。

隣は、木戸さんの健康器具部のブースだった。こっちは、うちの三倍くらいある。アシモミ改が、ずらりと十台並んでいる。

「おはよう、テスターさん! いよいよね!」

木戸さんが、ブースの仕切りから顔を出して手を振った。

鶴見さんも、朝からいた。

「推薦した以上、責任がありますので」

首にはいつものストップウォッチ、腕には品質保証部の腕章。ブースの机の上に、注文票の束を、きっちりそろえて置いている。

「今日の注文の数で、来期の予算が決まります」

鶴見さんは、注文票の束を指でとんとんと整えながら言った。

部長は、ブースのすみで、家から持ってきた魔法びんでお茶を淹れていた。展示会場でも、お茶は淹れるらしい。

私は、小さなブースを見回した。

ここが、こちょ研の、最後の場所になるかもしれない。

そう思ったら、急に、この狭い四角が、地下の開発部と同じくらい大事な場所に思えてきた。

「デモの枠は、午後四時半です」

透子さんが、会場の案内図を広げた。真ん中に、大きなステージの絵がある。

「今日の、最後の枠です。終わりは、閉場の五時。一番人が多い時間なので、鶴見さんが取ってくれました」

鶴見さんが、眼鏡を押し上げた。耳が、少し赤かった。


「では、目玉を出します」

透子さんが、ブースの奥にかけてあった、大きな布をつかんだ。

ばさっ。

出てきたのは、リクライニングチェアだった。

黒い合皮張りの、配属初日のワラエールと同じ形。でも、ひじ掛けには、ニギワラの白いグリップがついている。足元には、アシモミ改の、ブーツみたいな足のユニット。背もたれの上には、白い円柱。てっぺんにレンズがひとつあって、六本の細いアームが、ゆらゆら揺れている。

「ワラエール2です」

透子さんの目が、今までで一番、きらきらしていた。

「これまでの試作品の、全部です」

全部。

背中の、なで下ろされる感じ。首筋の羽毛。足の裏のブラシ。手のひらの毛。お腹の、シリコンの指。指の間の、細い先端。

これまでの試験の全部が、いっぺんに背中を這い上がってきて、私は思わず自分の両腕を抱えた。

背もたれの上のレンズが、くるりとこっちを向いた。

「日向さんを、検出しました。弱点、五十二か所、読みこみ済みです」

ケラの声だった。

「……おひさしぶりです」

なぜか、あいさつしてしまった。

「それと、モニターです」

透子さんが、チェアの横の画面を指さした。右上の目盛りが、また変わっている。

「上限は、五百にしました」

本当にした。

「止めるのは、このリモコンです」

透子さんが、手のひらに収まるくらいの、小さな白いリモコンを渡してくれた。真ん中に、赤い丸ボタンがひとつ。

「無線なので、ブースでもステージでも使えます。止める権限は、使う人だけが持つ作りにしました。操作卓からは、止められません」

ケラの日の、「権限は、日向さんに全部あずけてあります」と同じだ。

「では、着替えをお願いします」


更衣室から出てくると、ブースの前に、水着の人たちが並んでいた。

部長は、花柄の海パンに、アロハシャツ。鶴見さんは、紺の競泳用の水着に、品質保証部の腕章とストップウォッチ。木戸さんは、長袖のラッシュガード。透子さんは、水着の上に、いつもの白衣を着ていた。

「……本当に、全員なんですね」

「社長の方針でね」

部長が、魔法びんのお茶をすすりながら言った。

「うちは毎年、展示会では、出る社員がみんな水着で発表するんだよ。笑うとストレスが減る、の次の思いつきでね。目立つでしょう」

たしかに、目立っていた。会場の中で、水着なのは、ころころ玩具の社員だけだった。通りかかる人が、みんな二度見していく。

私は、木戸さんが用意してくれたビキニだった。「若い子はこれよ」と渡されたけれど、正直、ちょっとだけ恥ずかしい。ちょっとだけ、じゃないかもしれない。

でも、全員が水着だと、恥ずかしさも、なんだか分け合っているみたいで、少しだけましだった。

「では、開場前に、リハーサルをします」

透子さんが、白衣の袖をまくった。


ワラエール2に座った。

合皮が、素肌の背中にひやっと冷たい。両手で、ひじ掛けのグリップを握る。右手には、リモコンも一緒に。

「背中から、確認します」

アームが一本、背もたれのすきまから伸びてきた。

先端が、肩甲骨と肩甲骨のあいだに、ちょん、と触れる。そこから、背骨にそって、すうっと、ゆっくりなで下ろしていく。

配属初日に、一番最初に笑わされた場所だった。

「っ……」

息が止まった。

もう一本。今度は、背骨の少し横を、同じように、すうっと。二本が交互に、上から下へ、上から下へ。

「ふっ……くっ……ふふっ……」

『笑い指数 34』

背中は、自分では見えない。見えないところを、ゆっくりなでられると、次がどこに来るのか全然わからなくて、そのわからなさが、くすぐったさを何倍にもする。

「ふふっ、くふふっ、んっ、ふふふふっ……!」

先端が、腰の上で、くるっと小さな円を描いた。

「ひゃっ! あはっ、そこっ、あははっ!」

こらえていたものが、ぷつんと切れた。

『笑い指数 52』

「あはははっ、ひゃははっ、まって、背中っ、ぜんぶっ、ばれてるっ、あははははっ!」

アームが三本に増えた。肩甲骨の内側、背骨のくぼみ、腰のくびれの上。配属初日に見つけられた場所を、全部覚えている。

「あはははははっ、ひゃーっはははっ、あっははははははっ!」

『笑い指数 63』

隣のブースから、木戸さんたちが、何事かと顔を出した。

その中に、紺の作業着の、若い男の人がいた。木戸さんの部下の、新人くんだ。アシモミ改の停止ボタンを、速度アップに登録した人。

その新人くんが、私の顔を見て、ぷっと噴き出した。

「ふっ、ふふっ、す、すみません、なんか、つられて……」

新人くんは、口を押さえて、肩をふるわせて笑っていた。くすぐられているのは、私なのに。

ブースのすみで、部長が、それを見て、にこにこしていた。

止めなきゃ。

私は、右手のリモコンを、親指で押した。

アームが、すっと止まった。背もたれの中へ、するする戻っていく。

止まった。

ちゃんと、止まった。

「今日は、ちゃんと止まる……」

思わず、声に出していた。本番でも、こうやって押せばいい。

「リハーサル、問題ありません」

透子さんが、満足そうにうなずいた。

私はチェアから降りて、リモコンを持ったまま、自分の格好を見下ろした。

ビキニには、ポケットがない。

当たり前だけれど、どこにもない。

仕方がないので、リモコンを、ブースの机の上に置いた。鶴見さんの注文票の束の、すぐ横。

ここなら、なくさない。


開場すると、会場は、あっというまに人でいっぱいになった。

でも、こちょ研のブースには、あまり人が来なかった。

水着の私たちを見て足を止める人はいる。チェアをのぞきこむ人もいる。でも、透子さんが「くすぐりで、笑顔を」と説明すると、みんな「くすぐり?」と首をかしげて、そのまま隣のアシモミ改のほうへ流れていった。

鶴見さんが、注文票の束をめくった。一枚も、減っていなかった。鶴見さんの眉が、ほんの少しだけ、ひそめられた。

お昼すぎ、ブースの裏で、透子さんと二人でおにぎりを食べた。

透子さんは、白衣のポケットからタブレットを出して、ずっと何かを見ていた。

「透子さん」

「はい」

「どうして、くすぐり家電を作ってるんですか」

監査の日に、鶴見さんが同じことを聞いた。そのとき、透子さんは「データが足りないので」とだけ答えた。

透子さんは、タブレットから顔を上げた。

「……データが、足りないので」

同じ答えだった。

でも、今日は、そのあとに、何かを言いかけた。口が、少しだけ開いて、それから閉じた。

「デモが終わったら、話します」

透子さんは、またタブレットに目を戻した。

私は、それ以上、聞かなかった。


午後四時半。

会場の真ん中のステージは、ブースの何倍も大きかった。客席には、パイプ椅子が百くらい並んでいて、通りすがりの人が、半分くらい座っている。

ワラエール2が、台車でステージの真ん中に運ばれた。電源のコードが、ステージの床の差しこみ口につながれる。

透子さんは、客席の一番うしろの操作卓に座った。マイクとモニターの切り替えをする机だ。部長は、客席のすみで魔法びんのお茶。鶴見さんは、ステージの袖で、ストップウォッチを構えている。

私は、ワラエール2に座って、グリップを握った。

「日向さん。リモコン、お願いします」

操作卓から、透子さんのマイクの声がした。

「はいっ」

返事だけは、よかった。


「それでは、笑顔ケア開発部のデモンストレーションです!」

司会の人の明るい声で、ステージの照明が、ぱっと明るくなった。

「弱点を、すべて、読みこみました」

ケラの声が、会場のスピーカーから流れた。

最初は、一か所ずつだった。

首筋に、羽毛みたいな、ふわっとした先端。

「ひゃっ」

手袋の日。

背中を、すうっと。

「くふっ」

配属初日。

グリップの中で、細い毛が、手のひらをぞわぞわ。

「んふふっ」

監査の日。

足のユニットのブラシが、膝の裏と、土踏まずを。

「ひゃはっ、あはっ」

アシモミ改の日。

お腹とわき腹を、アームの先がつんつん。

「くふっ、ふふふっ」

監査の日の、本命。

指の間と、肘の内側を、細い先端がくるくる。

「ひゃははっ!」

ケラの日。

触れられるたびに、その日のことを、体が全部思い出した。こちょ研に来てからの毎日が、一か所ずつ、順番に、体の上を通りすぎていく。

『笑い指数 48』

客席は、ぽかんとしていた。

それはそうだと思う。水着の女の人が、椅子に座って、ひゃっとか、くふっとか言っているだけなのだから。

『笑い指数 53』

台本では、ここで一度止めることになっていた。笑い指数が五十を超えたら、リモコンで止めて、「このように、いつでも自分で止められます」と、司会の人が言う。

私は、右手の親指で、リモコンを押した。

親指が、何もないところを押した。

右手を見た。

握っているのは、グリップだけだった。

左手を見た。

グリップだけだった。

リモコンは、ブースの机の上。鶴見さんの、注文票の束の、すぐ横。

「……あ」

ケラのアームが、わき腹を、つうっとなで上げた。

「ひゃははっ、あはっ、とうこさんっ、リモコンっ、ブースにっ、あはははっ!」

客席のうしろで、透子さんが、操作卓から立ち上がるのが見えた。

「操作卓からは、止められません」

マイクを通した透子さんの声が、会場じゅうに響いた。

「止める権限は、リモコンを持つ人だけです」

知ってます。

「取ってきます」

透子さんが、白衣をひるがえして、客席のうしろの通路を走り出した。ブースは、会場の一番すみっこだ。

司会の人が、あわてて、チェアの電源のコードをたどった。コードは、ステージの床の差しこみ口に入っていて、その先は、床下の配電盤につながっている。

「すみません、配電盤の鍵、どなたか……会場の係の方を……」

司会の人が、袖のほうへ走っていった。

ステージの上には、私と、ワラエール2だけが残った。

「組み合わせを、更新します」

ケラが言った。


全部、同時だった。

首筋。腋の下。わき腹。お腹。膝の裏。足の裏。グリップの中で、手のひら。

「──ひゃあぁっはははははははっ、あーっはっはっはっはっはっ、ぜんぶっ、ぜんぶいっぺんにっ、あっははははははははははっ!」

六本のアームと、足のユニットのブラシと、グリップの毛が、私の体じゅうの、くすぐったいところを、ひとつも残さずにくすぐっていた。

腋の下を守ろうとして腕を下ろしたかったけれど、両手はグリップを握っている。グリップを放したら、手のひらは逃げられる。でも、放そうとすると、グリップの中の毛が、指の付け根をいっせいにくすぐって、指が勝手にぎゅっと握りこむ。

足を引っこめたい。でも、足はユニットの中だ。

「あははははははっ、ひゃーっはははははっ、だれかっ、だれかぁっ、きゃははははははははっ!」

『笑い指数 97』

『笑い指数 118』

数字が、三けたに入った。上限は五百。範囲外は、まだまだ先だ。

何も持っていない右手の親指が、何度も、グリップの上で空振りした。押す物がないのに、押してしまう。体が、止めたがっている。

客席が、見えた。

最初は、みんな、ぽかんとしていた。

一番前の席の、背広のおじさんが、口のはしを、ぴくっとさせた。

「ひゃははははははっ、みないでっ、あーっはははははははっ、みないでくださいってばぁっ、きゃははははははははっ!」

おじさんが、ぷっと噴き出した。

その隣の、お子さん連れのお母さんが、おじさんを見て、くすっと笑った。

『笑い指数 146』

「くひゃははははっ、そこっ、わき腹とっ、ひゃーっはははははっ、足のうらっ、いっしょはっ、あっはははははははははっ!」

お母さんの膝の上の子どもが、きゃははっと笑った。

その笑い声につられて、うしろの列の人たちが笑い出した。

笑い声が、客席のうしろのほうへ、波みたいに広がっていく。

通路を歩いていた人が、足を止めた。何だろう、という顔でステージを見て、私を見て、それから、前の人たちが笑っているのを見て、笑った。

『笑い指数 182』

「ひゃーっはっはっはっはっはっ、あーっはははははははっ、みんなっ、わらってないでっ、たすけてっ、きゃははははははははははっ!」

助けて、と言ったら、客席が、どっと笑った。

助けてほしいのに。

ステージのまわりに、人が集まってきた。客席のパイプ椅子は、もう全部埋まっている。うしろに、立ち見の人が、二重、三重に並んでいく。

『笑い指数 215』

ステージの横の、大きな時計が見えた。

四時四十分。

まだ、二十分ある。

「あっはははははははははっ、にじゅっぷんっ、むりっ、むりですってばぁっ、ひゃーっははははははははははっ、あーっはっはっはっはっはっはっはっ!」

ケラのアームが、お腹のまわりを、くるくると回った。素肌のおへその横を、アームの先端が二本ずつ、左右から。監査の日の、あの五分間と同じ場所。でも今日は、五分では終わらない。

「くひゃっ、おなかっ、おなかはっ、だめっ、あははははははははっ、ひゃははははははっ、あっははははははははははっ!」

『笑い指数 263』

袖のほうを見た。

鶴見さんが、競泳用の水着のまま、自分のわき腹を両手でぎゅっと押さえて、肩をふるわせていた。ストップウォッチは、首からぶらんと下がっている。

笑っていた。

くすぐられてもいないのに、鶴見さんが、笑っていた。

客席のすみでは、部長が、湯のみを持ったまま、体を折り曲げて笑っていた。お茶が、こぼれそうになっている。

隣のブースから、木戸さんと新人くんが、仕切りを越えてこっちを見て、笑っていた。

『笑い指数 301』

「あーっはっはっはっはっはっはっはっはっ、ひゃあぁっはははははははははははっ、さんびゃくっ、こえたぁっ、きゃーっははははははははははははっ、あっはははははははははははははっ!」

自分の笑い指数を、自分で実況してしまった。

客席が、また、どっと沸いた。

司会の人が、袖から戻ってきた。係の人は、まだ来ない。人が多すぎて、会場の反対側から、ここまでたどりつけないらしい。司会の人は、困った顔で、それでも、さすがに仕事の人だった。操作卓のモニターを切り替えて、ステージの大きな画面に、私の笑い指数と並べて、新しいメーターを出した。

『会場の笑い声』

その針が、ぐんぐん上がっていった。


四時五十分。

人垣の向こうに、白衣が見えた。

透子さんだった。

右手に、白いリモコンを、高くかかげている。人のあいだを、かきわけて、かきわけて、でも、ステージのまわりは、もう人でぎっしりで、透子さんは、なかなか前に進めなかった。

「日向さん」

透子さんの声は、会場の笑い声にかき消されて、ほとんど聞こえなかった。

リモコンが、人垣の向こうで、ゆらゆら揺れている。

あそこにある。

見えている。

でも、届かない。

配属初日の、三センチを思い出した。今日は、三十メートルくらいある。

「ひゃははははははっ、とうこさんっ、みえてるのにっ、とどかないっ、あーっははははははははははっ、ひゃーっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」

『笑い指数 376』

ケラのアームが、腋の下に二本、集まってきた。右と左、両方。足のユニットのブラシが、土踏まずから指の付け根まで、波みたいに、なで上げる。グリップの毛が、手のひらの真ん中で、ふるふる震える。

体じゅうが、ひとつの、大きな笑い声になったみたいだった。

「あーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ、きゃあぁっはははははははははははははっ、ひゃーっはははははははははははははっ、あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」

『笑い指数 412』

会場じゅうが、笑っていた。

私の笑い声と、客席の笑い声が、どっちがどっちかわからないくらい、ひとつになって、天井の高い展示会場に、わんわん響いていた。

キーン、コーン、カーン、コーン。

チャイムが鳴った。

「本日の展示は、これで終了いたしました。ご来場、ありがとうございました」

アナウンスと同時に、ステージの照明が、ふっと落ちた。

ワラエール2のアームが、ぴたりと止まった。

ステージの電源が、落とされたのだった。

五時ちょうど。デモの枠の、三十分いっぱいだった。


チェアの上で、私は、天井を見上げていた。

体じゅうが、まだ、勝手にぴくぴく動いている。

静かになった会場に、ぱち、ぱち、と、拍手の音がした。

それが、ひとつ、ふたつと増えて、あっというまに、会場じゅうが、大きな拍手でいっぱいになった。

閉場のアナウンスが流れたのに、誰も帰らなかった。人の流れが、ステージから、会場の一番すみっこのほうへ向かっていく。

こちょ研のブースの前に、列ができていた。

鶴見さんが、注文票の束を抱えて、競泳用の水着のまま、走り回っていた。

「並んでください、こちらに、順番に!」

木戸さんが、仕切りの向こうから叫んだ。

「透子ちゃん、やったじゃない!」

部長は、こぼれかけたお茶を、ようやく一口すすって、にこにこしていた。

「人はね、笑っている人を見て、笑うんだよ」


片づけの終わったステージの袖で、透子さんと二人になった。

会場の照明は、半分落とされていて、遠くで、ブースを解体する音がしていた。私は、ビキニの上に、木戸さんが貸してくれたラッシュガードを着ていた。

透子さんの手には、まだ、白いリモコンがあった。

「約束でしたので」

透子さんが、言った。

「子どものころ、みんなで、くすぐりっこをしていました」

透子さんは、誰もいない客席のほうを見ていた。

「みんな、すごく笑っていました。転がって、涙を出して。でも、私だけ、何も感じませんでした。くすぐられても、くすぐったくないので。みんなが笑っているのを、輪の外から、見ていました」

「……」

「くすぐったいのが、どういうものなのか、一度も、わかりませんでした。だから、外から、全部のデータを集めれば、わかるかもしれないと思ったんです」

透子さんは、少しだけ、うつむいた。

「……データが、足りなかったので」

監査の日の、あの答えの続きは、それだった。

透子さんが、顔を上げて、私を見た。

「日向さん」

「はい」

「そんなに笑うのって、どんな感じですか」

手袋の日と、同じ質問だった。

あの日、私は「お腹が痛いです」と答えた。

今日は、少し考えた。

それから、誰もいない客席を、指さした。

「今日の、あれです」

透子さんが、客席を見た。

「私が笑ったら、みんなが笑ってたでしょう。知らない人も、鶴見さんも、部長も。ああいう感じです。なんか、自分の中の笑いが、勝手に外にあふれて、みんなのところに、うつっていく感じ」

透子さんは、しばらく、客席を見ていた。

会場の出口のほうから、帰っていく人たちの声が、まだ聞こえていた。その中に、ときどき、思い出し笑いみたいな、くすくすという声がまじっていた。

透子さんの、口の端が、ほんの少しだけ、上がった。

本当に、ほんの少しだけ。

白衣のポケットの中で、タブレットが、ぴこん、と小さく鳴った。

くすぐりでは、一度も笑わなかった透子さんの、初めての笑顔だった。

私は、何も言わなかった。言ったら、消えてしまいそうな気がしたので。


次の日の朝、地下の開発部に、内線がかかってきた。

鶴見さんからだった。部長が受話器を取って、うん、うん、とうなずいて、それから、私と透子さんのほうを向いて、親指を立てた。

来期の予算が、決まった。

こちょ研は、続く。

その日の夕方、透子さんの、展示会の試験報告書が回ってきた。

所見の欄には、こう書いてあった。

『デモ時間、三十分。被験者の笑い指数、最大四百十二。会場の笑い声、計測不能。開発者の笑い指数、四。くすぐりによるものではない。』

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