こちょこちょ研究部

第1章配属先はこちょ研

8,840字約15分で読めます2026年10月29日
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辞令には「笑顔ケア開発部」と書いてあった。

企画部を第一志望に書いて、面接でも企画部の話しかしなかった私が、なぜ笑顔ケア開発部なのか。人事の人は「日向さんにぴったりの部署ですよ」と笑っていたけれど、その笑顔の意味を、私はまだ知らなかった。

場所は本社ビルの地下一階。

エレベーターに地下のボタンがなかった。総務の人に聞いたら、非常階段を使ってくださいと言われた。この時点で、だいぶ嫌な予感はしていた。

階段を降りきった先は、薄暗い廊下だった。突き当たりに、元は倉庫だったらしい鉄の扉がある。扉には、手書きの紙が一枚、テープで貼ってあった。

『こちょこちょ研究部』

部。

正式名称が「笑顔ケア開発部」なのだから、部なのは合っている。合っているけれど、こちょこちょ研究部と書かれると、どう見ても高校の部活だ。しかも誰かが「部」の字だけを、赤ペンで二重になぞってある。こだわるところ、そこなんだ。

「……失礼します」

扉を開けると、ほうじ茶の香りがした。

コンクリートの壁に囲まれた、思ったより広い部屋だった。スチールの棚に、よくわからない機械がぎっしり並んでいる。羽根のついたロボットアーム。指が十本ある手袋。足の形をしたクッション。何に使うのか、考えたくない形のものばかりだ。

「やあ、いらっしゃい。日向くんだね」

部屋の真ん中の小さなちゃぶ台で、白髪まじりのおじさんがお茶を淹れていた。紺のカーディガンに、老眼鏡。部署名のプレートより、縁側のほうが似合いそうな人だ。

「部長の大倉です。ようこそ、こちょ研へ」

「日向真帆です。よろしくお願いします。あの、こちょ研というのは……」

「社内での呼び名でね。正式名称は長いから、みんなそう呼ぶ」

大倉部長は湯のみを私の前に置いた。

「ああ、それと、来期までに商品が一つも出なかったら、ここは閉鎖だから。よろしくね」

湯のみを置くついでに言うことじゃない。

「閉鎖って」

「まあまあ、お茶をどうぞ」

どうぞじゃない。

聞き返そうとしたとき、奥の棚の陰から、白衣の女の人が出てきた。

背が高くて、髪をひとつに結んでいる。顔立ちはきれいなのに、表情がまったく動かない。手には、タブレットと、ドライバー。

「面接で『くすぐりは平気です』と答えた日向さんですね」

挨拶より先に、それだった。

「……え?」

「最終面接の記録に残っています。『苦手なものはありますか』という質問に、『くすぐりも平気なくらい、我慢強いです』と」

言った。たしかに言った。緊張して、自分でもよくわからない例えを出したのを覚えている。まさかそれが。

「それが配属の決め手です。開発者の千石透子です。日向さんの教育係になります」

千石さんは、ぺこりと頭を下げた。頭を下げても、表情は一ミリも変わらなかった。


「本日の試験対象は、こちらです」

千石さんが部屋の奥の布をめくった。

出てきたのは、大きなマッサージチェアだった。黒い合皮張りで、リクライニングつき。ここまでは普通だ。普通じゃないのは、背もたれとひじ掛けから、細い銀色のアームが何本も生えていることだった。数えると、十本。それぞれの先に、シリコンでできた、やわらかそうな指がついている。

「ワラエール。一日の終わりに座るだけで、たまったストレスを笑いに変える家庭用チェアです」

「笑いに、変える」

「はい。アームが、利用者の体表に最適化された触覚刺激を与えます。刺激の周波数帯は、皮膚の機械受容器の応答特性に合わせて、毎秒四から八ヘルツの範囲で変調します」

たぶん「こちょこちょの速さを調整します」という意味だ。

「圧力センサーで反応を読み取り、刺激部位を自動で最適化します」

たぶん「くすぐったがるところを探します」という意味だ。

「つまり、くすぐり機ですよね」

「笑顔ケア家電です」

千石さんは真顔で訂正した。そこは譲らないらしい。

「日向さんには、テスター係をお願いします。座って、反応を計測させてもらうだけです」

「あの、それって、断ったりは……」

「もちろんできます。強制ではありません。ただ、テスター係にはテスト手当がつきます。一回、三千円」

三千円。

頭の中で、奨学金の返済表がめくれた。毎月の返済額。残りの年数。三千円が十回で三万円。二十回で六万円。

「やります」

即答していた。

千石さんは小さくうなずいて、タブレットに何か書きこんだ。

「停止ボタンは、右のひじ掛けの先にあります。いつでも押してください。押したら、その試験は終わりです。手当は、押しても出ます」

ひじ掛けの先に、赤い丸ボタンがついている。手を置けば、ちょうど人差し指が届く位置だ。

「押しませんよ。平気なので」

私は胸を張った。面接で言ったことは、嘘にしたくない。

「助かります」

千石さんは、ほんの少しだけ声をやわらげた。

「私は、くすぐったさを感じにくい体質なので、自分では試験ができないんです。ずっとテスターを探していました」

感じにくい体質。そんなものがあるのか。だったら千石さんが座ればいいのに。そう思ったけれど、初日から先輩に言い返すのはやめておいた。

ちゃぶ台のほうで、大倉部長がずずっとお茶をすする音がした。


チェアに座ると、思ったよりふかふかだった。

「低出力モードで開始します。まずは背中から」

千石さんがタブレットをタップする。ウィーン、と小さなモーター音がして、背もたれの中で何かが動く気配がした。

背もたれの穴から、アームが二本、するりと出てきたのがわかった。見えないけれど、ブラウスの生地ごしに、シリコンの指先が肩甲骨の下あたりに触れる。

ひやっとした。

指先は、背骨の両わきを、ゆっくり下へ降りていく。上へのぼる。また降りる。なぞる、というより、背中の地図を確かめるような動きだ。

くすぐったい、というほどではない。こそばゆい。美容院で、首の後ろに落ちた髪の毛をブラシで払われたときくらいの感じ。

「どうですか」

「全然平気です」

本当に平気だった。なんだ、こんなものか。

壁ぎわのモニターに、大きな数字が出ている。『笑い指数 12』。

「笑い指数というのは」

「表情筋の動き、呼吸の乱れ、発声を合わせて、笑いの強さを数値化したものです。百が上限です」

十二。余裕だ。百分の十二。

と、思っていたら、アームの動きが変わった。

指先が、背骨のわきから外側へ、すうっと滑った。肩甲骨の内側の、くぼんだところ。そこに、指が四本、ふわっと入りこんでくる。

そして、ばらばらに動き始めた。

「っ」

一本が上へ。一本が下へ。残りの二本が、その場で小さく円を描く。どの指がどこに来るのか、まったく読めない。読めないから、身構えられない。

肩がびくっと跳ねた。背中を丸めて逃げようとしても、背もたれから生えたアームは、背中のどこにでも先回りしてくる。

「んっ……く……」

『笑い指数 38』

数字が、勝手に増えていく。実況されているみたいで、ものすごく恥ずかしい。

「日向さん、どうですか」

「へ、平気、です」

声が、ちょっと震えた。平気、の「へ」が、思ったより高く出た。

指が、肩甲骨の内側から、背骨の一番くぼんだところへ寄ってくる。腰より少し上、ブラウスの生地が背中に張りつくあたり。そこを、四本の指が、くるくる、くるくる。

「ふっ……ふふっ……くふふっ……」

だめだ、漏れた。

口を閉じても、鼻から笑いが抜けていく。肩が小刻みに揺れて、それに合わせて指もついてくる。こそばゆいが、くすぐったいに変わって、くすぐったいが、背中じゅうに広がっていく。皮膚の表面だけ触られているのに、その下の、骨のほうまでむずむずする。

「くふっ、ふふふっ……ふふっ、くくっ……」

『笑い指数 61』

「千石さん、これ、ほんとに、低出力ですかっ」

「はい。最低から二番目です」

二番目。これで。

指が、背骨を一つずつ、数えるみたいに下りてくる。ひとつ。ふたつ。みっつ目で、腰のくぼみに着いて、そこでいきなり、全部の指が小刻みに震えた。

「へ、平気で、すっ、すぅっ——ぷはっ!」

決壊した。

「あははっ、ちょ、ちょっと待っ、待ってくださっ、あははははははっ!」

「す」が裏返って、そのまま笑い声に化けた。自分の声とは思えないくらい、甲高い声だった。

「あははははっ、あはっ、あははははははっ!」

右手が勝手に動いた。人差し指が赤いボタンを探り当てて、押す。

ピッ。

アームが、すっと背もたれの中へ引っこんだ。

押せた。よかった。ちゃんと押せる。

私は肩で息をしながら、天井を見上げた。コンクリートの天井に、配管が通っている。地下だ。ここは地下だ。

千石さんは、無表情のまま、タブレットに何か書きこんでいた。

「自己申告と、計測値が一致しません」

それは、そうでしょうね。


「今のは、不意打ちだったので」

三分後、私は息を整えて、言い訳をしていた。

「背中は、見えないじゃないですか。どこに来るかわからないから、反応しちゃっただけです。わかっていれば、耐えられます」

負けず嫌いなのは、昔からだ。運動会のリレーで転んで、そのまま走りきって、ゴールしてから泣いたことがある。

「次は、本気で耐えます」

「わかりました」

千石さんは、タブレットの画面を何度かスワイプした。

「では、本番モードで行きます。今のだけでは、データが足りないので」

「本番モード」

「低出力から一段階、上げます」

タップ。タップ。

今、二回押しませんでしたか。

「一段階です」

千石さんは、画面から目を離さずに言った。

ちゃぶ台のほうから、大倉部長ののんびりした声がした。

「透子くんの『一段階』はね、だいたい二段階だよ」

お茶をすすりながら言うことじゃない。

千石さんは聞こえなかったふりをして、説明を続けた。

「本番モードでは、被験者が大きく動いて試作品が破損するのを防ぐため、アームが腕と脚を軽く支えます」

「支える」

「はい。軽く」

私は、その「支える」が何を意味するのか、このとき、あまり深く考えなかった。考えるべきだった。


「開始します」

ウィーン、とさっきより低いモーター音が響いた。

最初に動いたのは、ひじ掛けのアームだった。

右のひじ掛けから出てきた二本が、私の右の手首を、そっと上から押さえた。左も同じ。シリコンの指が、手首を包むように、やわらかく、でもしっかりと。

「あの、千石さん」

「軽く支えているだけです」

たしかに痛くはない。でも、動かそうとすると、動かない。

足元でも、何かがすねのあたりに回りこんだ感触がした。

私は右手の人差し指を、そっと伸ばしてみた。赤いボタンは、指先のほんの三センチ向こうにある。届きそうで、届かない。手首が押さえられているせいで、あと少しが伸びない。

「ボタンが、押せないんですけど」

「押す必要がなければ、問題ありません。平気なんですよね」

ぐうの音も出なかった。

背もたれから、アームが二本、するすると出てくる。さっきのやつだ。でも今度は、背中にはとどまらなかった。

背中から、脇へ。左右に一本ずつ、私の体の横へ回りこんでくる。ブラウスの上から、あばらの一番下のあたりに、シリコンの指先がぴたりと止まった。

脇腹。

来る。来る、と思った瞬間、来なかった。

指先は、そこに置かれたまま、動かない。一秒。二秒。三秒。

動かないほうが、こわい。

体中の神経が、脇腹の、その一点に集まっていく。息を止めて、腹筋に力を入れて、いつ来てもいいように構える。

四秒目で、指がつん、とつついた。

「ひゃいっ!」

体がびくんと跳ねた。椅子ごと揺れた気がした。

つん。

「ひぅっ」

つん、つん。

「ちょ、やめっ、ひゃっ!」

一回つつかれるたびに、体が勝手に跳ねる。跳ねるたびに、手首のアームが、くっと押さえ直してくる。

「ひゃっ! ひっ、ひゃうっ!」

『笑い指数 44』

いきなり四十四。背中の前哨戦の、三倍以上のスピードだ。

つつく間隔が、だんだん短くなる。つん、つん、つんつんつん。リズムが読めたと思ったら、一回休む。休んだと思ったら、二回続けてくる。

「ひっ、ひゃっ、ちょっ、ひゃいっ、ひゃっ!」

「千石さん、これ、読めない、んですけどっ」

「規則的な刺激には、慣れが生じるので、ランダム化しています」

いらない。そんな配慮は、いらない。

そして、指の動きが、変わった。

つつくのをやめて、脇腹に、指が四本、べったりと貼りついた。

揉んだ。

「ぶふっ」

噴き出した。

「ぶはっ、あはっ、あははははっ!」

肋骨と腰骨の間の、やわらかいところを、シリコンの指が、もみ、もみ、と押しては離す。一本一本の指が、少しずつずれたタイミングで沈みこんでくる。くすぐったさが、波みたいに、つぎつぎ押し寄せる。

「あっはははっ! だめ、だめですって、ひゃははははっ、ひゃっははははははっ!」

腰をひねって逃げようとする。でも左右から同時に来ているから、右へ逃げれば左の指が深く入り、左へ逃げれば右の指が深く入る。逃げ道がない。

「あはははははっ、ひゃははっ、あっははははははっ!」

右手の人差し指を、必死に伸ばした。三センチ。あと三センチ。

指先が、ボタンの縁をかすった——

瞬間、ひじ掛けのアームが、きゅっと手首を引き戻した。

「ああっ、今、今っ、もうちょっとでっ、くっはははっ、くははははははっ!」

『被験者の上肢の動きが大きくなっています。保持を強化します』

チェアから、機械の音声が流れた。

強化しないで。お願いだから、強化しないで。

手首を押さえる指が、さっきより一本増えた。ボタンまで、今度は五センチ。遠ざかった。私が暴れれば暴れるほど、ボタンが遠くなる。そういう仕組みなのか、これは。

「あはははっ、やだっ、やだやだっ、あっはははははははっ!」

「せんごく、さんっ、ボタン、押させっ、くひゃははっ、ひゃはっ、くひゃひゃひゃひゃひゃっ!」

「押させて」の「て」が、どうしても出てこない。言いたいことが全部、途中で笑い声に溶けていく。

「くひゃひゃひゃっ、ひゃはははははっ、あはははははははっ!」

指は、揉むのをやめて、今度は肋骨の一番下の骨を、指先で弾き始めた。ぴん、ぴん、とギターの弦をはじくみたいに。

「ひーっ! そこっ、そこほんとにだめっ、ひゃーっはっはっはっはっはっ! ほねっ、骨にっ、ひびくっ、ひゃっはっはっはっはっはぁぁっ!」

骨に響く。骨の上の、薄い皮膚がびりびりする。弾かれた場所から、くすぐったさが腋の下のほうまで駆け上がってくる。

「ひゃーっはっはっはっはっはっ! ひゃっはっはっはっはっはっはっはっ!」

『笑い指数 82』

モニターの数字が、ちらっと見えた。誰かあの数字を止めてほしい。いや、数字じゃなくて、機械を止めてほしい。

「あーっはっはっはっはっ、ひゃははははははははっ!」

「千石さんっ、あはははっ、止めっ、ひゃははははっ、止めてくださいっ、あーっはっはっはっはっ!」

「あと十秒で、このパターンの計測が終わります」

「十秒っ、十秒って、なが、長いっ、あひゃひゃひゃっ、あっひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!」

十。九。

千石さんが、本当に声に出して数え始めた。数えなくていい。

八。指が、脇腹から、少しだけ上へのぼってくる。七。あばらを一段ずつ、はしごをのぼるみたいに。六。のぼった先は、腋の下のすぐ手前。五。そこで止まる。

「ひっ、ひっ……ひゃはっ……くふふふっ……!」

止まらないで。いや、止まって。どっち。

四。

指が、腋の下の手前で、くるくると円を描いた。

「ひゃっひゃっ、はひっ、はひーっ、ひゃひーっひっひっひっひっひっ!」

『笑い指数 91』

息が吸えない。笑うために吐く息ばかりで、吸う暇がない。笑い声の合間に、しゃっくりみたいな変な声が混ざる。

「はひっ、ひゃひひひひっ、はひーっ、ひゃひゃひゃひゃひゃっ!」

三。二。

一。

「はい、計測終了です」

……アームは、止まらなかった。

「あの、なんで、止まらなっ、ふひゃっ、ふへっ、へへへへへっ、うひゃひゃひゃひゃひゃっ!」

「このあと、次のパターンに自動で移行する仕様になっています」

聞いてない。

「次のパターンは、揉みとつつきの複合です」

聞いてないってば。

指が、また脇腹に戻ってくる。左は揉んで、右はつつく。左右でまったく違う動きをされると、どっちに身構えればいいのか、頭が完全に混乱する。

「きゃーっははははっ、むりっ、むりですってぇぇっ! あはっ、あーっはっはっはっはっはっはっはっ、ほんとにっ、ほんっとにむりぃっ、ひゃあぁっはははははははははっ!」

『笑い指数 99』

『計測範囲外』

モニターの数字が消えて、赤い文字に変わった。

範囲外。私の笑いが、範囲の外に出てしまった。

「ひゃあぁっはははははははっ! あーっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」

涙で視界がにじむ。天井の配管が、ぐにゃぐにゃに見える。もう、平気とか平気じゃないとか、そういう段階の話ではなかった。

「千石さんっ、ひゃははははははっ、範囲外っ、あーっはっはっはっはっはっ、範囲外って、出てますっ、きゃははははははははっ!」

これで止まる。止まるはずだ。計測できないなら、試験をする意味がない。

「はい。範囲外のデータは、とても貴重です」

千石さんは、身を乗り出してモニターをのぞきこんだ。止める気配が、一ミリもない。

「あはははははははっ、ひゃーっはっはっはっはっはっはっはっ!」

「上限を超えたときの反応は、まだ誰も取ったことがないので」

取らなくていい。誰も取らなくていいデータだ、それは。

アームは、範囲外になったことなんて気にもせず、脇腹を攻め続けた。いや、気にしていないどころか、さっきより丁寧になった気さえする。左右の指が、脇腹の前から後ろへ、ゆっくり回りこんでいく。背中との境目の、腰のくびれのすぐ上。自分でも触ったことがないような場所に、指先が一本ずつ、そっと沈みこむ。

「きゃーっははははははっ! そこっ、そこっ、あっひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!」

『反応の大きい部位を検出しました。重点的に刺激します』

検出しないで。

「ひっ、ひぃっ、ひぃぃっ、ひぃーっひっひっひっひっ、ひっ、ひぃぃぃっ……!」

笑い声が、だんだん高くなっていく。自分でも聞いたことのない高さまで裏返って、地下のコンクリートの壁に、わんわん反響した。

声だけじゃなく、体も全部笑っていた。肩が跳ねて、膝が跳ねて、足の指まで勝手にきゅっと丸まる。手首のアームが押さえ直すたびに、ひじ掛けがかたかた鳴った。

「ひゃははははっ、あーっはっはっはっはっはっ、ひゃっはっはっはっはっはっ!」

息を吸おうとした瞬間に、指がつん、と腰の横をつつく。吸いかけた息が、そのまま笑いになって飛び出していく。吸えない。吐くばっかりで、肺がからっぽになっていく。

「あははははっ、ひゃはっ、あっははははははははっ!」

「呼吸は、確保されています」

千石さんが、モニターの別の数字を見ながら言った。

確保されてない。私の体感では、まったく確保されてない。

右手の人差し指を、もう一度だけ伸ばした。ボタンが、遠い。さっきより、さらに遠い気がする。指先が空をかいて、ひじ掛けのアームに、やさしく引き戻された。

「ひゃははははっ、ぼたっ、ぼたんっ、あはははははははははっ!」

『被験者の上肢の動きが大きくなっています』

知ってる。

アームは、今度は脇腹の一番やわらかいところを、指の腹で、ふるふると震わせ始めた。揉むでも、つつくでもない。小刻みな振動が、皮膚の下まで、じわじわと染みこんでくる。くすぐったさが、波から、地鳴りに変わった。

「ふぁっ、はっ、はひゃっ、ひゃふっ、ふへへへへへっ、へひゃっ、ひゃはぁぁっ、あぁーっはははははははっ……!」

もう、自分がどんな声を出しているのかもわからない。笑いすぎて、お腹の筋肉がつりそうだった。目の端から、涙がつうっと耳のほうへ流れていく。

「あぁーっはははははははっ、ひゃははははははははっ、あっはっはっはっはっはっはっはっはっ……!」

モニターの赤い文字は、ずっと点滅していた。『計測範囲外』『計測範囲外』『計測範囲外』。

範囲外のまま、どれくらい経ったんだろう。三十秒か、三分か。時計を見る余裕なんて、どこにもなかった。

「ひーっひっひっひっ、ひゃはっ、あははっ、あーっはははははははははっ……!」

そのとき。

視界の端に、紺色のカーディガンが映った。

大倉部長が、急須を片手に、こちらへ歩いてくる。のんびりと。まるで、縁側からお茶のおかわりを持ってくるみたいに。

部長は、チェアの横で足を止めた。

「おかわり、いるかい」

いる、とか、いらない、とか、言える状態じゃない。

部長は、私の右手の五センチ先にある赤いボタンを、ひょいと、人差し指で押した。

ピッ。

アームが、するすると引っこんでいった。


チェアの上で、私はしばらく動けなかった。

脇腹が、まだぴくぴくしている。触られていないのに、触られている気がする。息を吸うたびに、横隔膜のあたりから、笑いの残りかすみたいなのが、ふっ、ふっ、と漏れた。

ちゃぶ台に戻った部長が、湯のみに新しいお茶を注いでくれた。湯気が、やさしかった。

千石さんが、タブレットを胸に抱えて、私の前に立った。

そして、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます、日向さん。とても、いいデータが取れました」

顔を上げた千石さんは、やっぱり無表情だった。でも、目だけが、ほんの少しきらきらしていた。

悪気が、まったくない。

それが一番、たちが悪い。

「あの、千石さん。ひとつ聞いてもいいですか」

「はい」

「本番モードって、何段階あるんですか」

「十段階です。今日のは三です」

三。

私は、十まであることを、聞かなかったことにした。

「明日も、お願いできますか」

千石さんが、まっすぐ私を見る。

脇腹が、きゅっと縮こまった。頭の中で、奨学金の返済表がめくれた。三千円。

「……平気です」

私は言った。

ちゃぶ台のほうで、部長がずずっとお茶をすすった。

その日の夕方、千石さんが書いた試験報告書が、私の机に回ってきた。所見の欄には、きれいな字で、こう書いてあった。

『被験者の「平気」は、計測上の「平気」とは異なる。』