辞令には「笑顔ケア開発部」と書いてあった。
企画部を第一志望に書いて、面接でも企画部の話しかしなかった私が、なぜ笑顔ケア開発部なのか。人事の人は「日向さんにぴったりの部署ですよ」と笑っていたけれど、その笑顔の意味を、私はまだ知らなかった。
場所は本社ビルの地下一階。
エレベーターに地下のボタンがなかった。総務の人に聞いたら、非常階段を使ってくださいと言われた。この時点で、だいぶ嫌な予感はしていた。
階段を降りきった先は、薄暗い廊下だった。突き当たりに、元は倉庫だったらしい鉄の扉がある。扉には、手書きの紙が一枚、テープで貼ってあった。
『こちょこちょ研究部』
部。
正式名称が「笑顔ケア開発部」なのだから、部なのは合っている。合っているけれど、こちょこちょ研究部と書かれると、どう見ても高校の部活だ。しかも誰かが「部」の字だけを、赤ペンで二重になぞってある。こだわるところ、そこなんだ。
「……失礼します」
扉を開けると、ほうじ茶の香りがした。
コンクリートの壁に囲まれた、思ったより広い部屋だった。スチールの棚に、よくわからない機械がぎっしり並んでいる。羽根のついたロボットアーム。指が十本ある手袋。足の形をしたクッション。何に使うのか、考えたくない形のものばかりだ。
「やあ、いらっしゃい。日向くんだね」
部屋の真ん中の小さなちゃぶ台で、白髪まじりのおじさんがお茶を淹れていた。紺のカーディガンに、老眼鏡。部署名のプレートより、縁側のほうが似合いそうな人だ。
「部長の大倉です。ようこそ、こちょ研へ」
「日向真帆です。よろしくお願いします。あの、こちょ研というのは……」
「社内での呼び名でね。正式名称は長いから、みんなそう呼ぶ」
大倉部長は湯のみを私の前に置いた。
「ああ、それと、来期までに商品が一つも出なかったら、ここは閉鎖だから。よろしくね」
湯のみを置くついでに言うことじゃない。
「閉鎖って」
「まあまあ、お茶をどうぞ」
どうぞじゃない。
聞き返そうとしたとき、奥の棚の陰から、白衣の女の人が出てきた。
背が高くて、髪をひとつに結んでいる。顔立ちはきれいなのに、表情がまったく動かない。手には、タブレットと、ドライバー。
「面接で『くすぐりは平気です』と答えた日向さんですね」
挨拶より先に、それだった。
「……え?」
「最終面接の記録に残っています。『苦手なものはありますか』という質問に、『くすぐりも平気なくらい、我慢強いです』と」
言った。たしかに言った。緊張して、自分でもよくわからない例えを出したのを覚えている。まさかそれが。
「それが配属の決め手です。開発者の千石透子です。日向さんの教育係になります」
千石さんは、ぺこりと頭を下げた。頭を下げても、表情は一ミリも変わらなかった。
「本日の試験対象は、こちらです」
千石さんが部屋の奥の布をめくった。
出てきたのは、大きなマッサージチェアだった。黒い合皮張りで、リクライニングつき。ここまでは普通だ。普通じゃないのは、背もたれとひじ掛けから、細い銀色のアームが何本も生えていることだった。数えると、十本。それぞれの先に、シリコンでできた、やわらかそうな指がついている。
「ワラエール。一日の終わりに座るだけで、たまったストレスを笑いに変える家庭用チェアです」
「笑いに、変える」
「はい。アームが、利用者の体表に最適化された触覚刺激を与えます。刺激の周波数帯は、皮膚の機械受容器の応答特性に合わせて、毎秒四から八ヘルツの範囲で変調します」
たぶん「こちょこちょの速さを調整します」という意味だ。
「圧力センサーで反応を読み取り、刺激部位を自動で最適化します」
たぶん「くすぐったがるところを探します」という意味だ。
「つまり、くすぐり機ですよね」
「笑顔ケア家電です」
千石さんは真顔で訂正した。そこは譲らないらしい。
「日向さんには、テスター係をお願いします。座って、反応を計測させてもらうだけです」
「あの、それって、断ったりは……」
「もちろんできます。強制ではありません。ただ、テスター係にはテスト手当がつきます。一回、三千円」
三千円。
頭の中で、奨学金の返済表がめくれた。毎月の返済額。残りの年数。三千円が十回で三万円。二十回で六万円。
「やります」
即答していた。
千石さんは小さくうなずいて、タブレットに何か書きこんだ。
「停止ボタンは、右のひじ掛けの先にあります。いつでも押してください。押したら、その試験は終わりです。手当は、押しても出ます」
ひじ掛けの先に、赤い丸ボタンがついている。手を置けば、ちょうど人差し指が届く位置だ。
「押しませんよ。平気なので」
私は胸を張った。面接で言ったことは、嘘にしたくない。
「助かります」
千石さんは、ほんの少しだけ声をやわらげた。
「私は、くすぐったさを感じにくい体質なので、自分では試験ができないんです。ずっとテスターを探していました」
感じにくい体質。そんなものがあるのか。だったら千石さんが座ればいいのに。そう思ったけれど、初日から先輩に言い返すのはやめておいた。
ちゃぶ台のほうで、大倉部長がずずっとお茶をすする音がした。
チェアに座ると、思ったよりふかふかだった。
「低出力モードで開始します。まずは背中から」
千石さんがタブレットをタップする。ウィーン、と小さなモーター音がして、背もたれの中で何かが動く気配がした。
背もたれの穴から、アームが二本、するりと出てきたのがわかった。見えないけれど、ブラウスの生地ごしに、シリコンの指先が肩甲骨の下あたりに触れる。
ひやっとした。
指先は、背骨の両わきを、ゆっくり下へ降りていく。上へのぼる。また降りる。なぞる、というより、背中の地図を確かめるような動きだ。
くすぐったい、というほどではない。こそばゆい。美容院で、首の後ろに落ちた髪の毛をブラシで払われたときくらいの感じ。
「どうですか」
「全然平気です」
本当に平気だった。なんだ、こんなものか。
壁ぎわのモニターに、大きな数字が出ている。『笑い指数 12』。
「笑い指数というのは」
「表情筋の動き、呼吸の乱れ、発声を合わせて、笑いの強さを数値化したものです。百が上限です」
十二。余裕だ。百分の十二。
と、思っていたら、アームの動きが変わった。
指先が、背骨のわきから外側へ、すうっと滑った。肩甲骨の内側の、くぼんだところ。そこに、指が四本、ふわっと入りこんでくる。
そして、ばらばらに動き始めた。
「っ」
一本が上へ。一本が下へ。残りの二本が、その場で小さく円を描く。どの指がどこに来るのか、まったく読めない。読めないから、身構えられない。
肩がびくっと跳ねた。背中を丸めて逃げようとしても、背もたれから生えたアームは、背中のどこにでも先回りしてくる。
「んっ……く……」
『笑い指数 38』
数字が、勝手に増えていく。実況されているみたいで、ものすごく恥ずかしい。
「日向さん、どうですか」
「へ、平気、です」
声が、ちょっと震えた。平気、の「へ」が、思ったより高く出た。
指が、肩甲骨の内側から、背骨の一番くぼんだところへ寄ってくる。腰より少し上、ブラウスの生地が背中に張りつくあたり。そこを、四本の指が、くるくる、くるくる。
「ふっ……ふふっ……くふふっ……」
だめだ、漏れた。
口を閉じても、鼻から笑いが抜けていく。肩が小刻みに揺れて、それに合わせて指もついてくる。こそばゆいが、くすぐったいに変わって、くすぐったいが、背中じゅうに広がっていく。皮膚の表面だけ触られているのに、その下の、骨のほうまでむずむずする。
「くふっ、ふふふっ……ふふっ、くくっ……」
『笑い指数 61』
「千石さん、これ、ほんとに、低出力ですかっ」
「はい。最低から二番目です」
二番目。これで。
指が、背骨を一つずつ、数えるみたいに下りてくる。ひとつ。ふたつ。みっつ目で、腰のくぼみに着いて、そこでいきなり、全部の指が小刻みに震えた。
「へ、平気で、すっ、すぅっ——ぷはっ!」
決壊した。
「あははっ、ちょ、ちょっと待っ、待ってくださっ、あははははははっ!」
「す」が裏返って、そのまま笑い声に化けた。自分の声とは思えないくらい、甲高い声だった。
「あははははっ、あはっ、あははははははっ!」
右手が勝手に動いた。人差し指が赤いボタンを探り当てて、押す。
ピッ。
アームが、すっと背もたれの中へ引っこんだ。
押せた。よかった。ちゃんと押せる。
私は肩で息をしながら、天井を見上げた。コンクリートの天井に、配管が通っている。地下だ。ここは地下だ。
千石さんは、無表情のまま、タブレットに何か書きこんでいた。
「自己申告と、計測値が一致しません」
それは、そうでしょうね。
「今のは、不意打ちだったので」
三分後、私は息を整えて、言い訳をしていた。
「背中は、見えないじゃないですか。どこに来るかわからないから、反応しちゃっただけです。わかっていれば、耐えられます」
負けず嫌いなのは、昔からだ。運動会のリレーで転んで、そのまま走りきって、ゴールしてから泣いたことがある。
「次は、本気で耐えます」
「わかりました」
千石さんは、タブレットの画面を何度かスワイプした。
「では、本番モードで行きます。今のだけでは、データが足りないので」
「本番モード」
「低出力から一段階、上げます」
タップ。タップ。
今、二回押しませんでしたか。
「一段階です」
千石さんは、画面から目を離さずに言った。
ちゃぶ台のほうから、大倉部長ののんびりした声がした。
「透子くんの『一段階』はね、だいたい二段階だよ」
お茶をすすりながら言うことじゃない。
千石さんは聞こえなかったふりをして、説明を続けた。
「本番モードでは、被験者が大きく動いて試作品が破損するのを防ぐため、アームが腕と脚を軽く支えます」
「支える」
「はい。軽く」
私は、その「支える」が何を意味するのか、このとき、あまり深く考えなかった。考えるべきだった。
「開始します」
ウィーン、とさっきより低いモーター音が響いた。
最初に動いたのは、ひじ掛けのアームだった。
右のひじ掛けから出てきた二本が、私の右の手首を、そっと上から押さえた。左も同じ。シリコンの指が、手首を包むように、やわらかく、でもしっかりと。
「あの、千石さん」
「軽く支えているだけです」
たしかに痛くはない。でも、動かそうとすると、動かない。
足元でも、何かがすねのあたりに回りこんだ感触がした。
私は右手の人差し指を、そっと伸ばしてみた。赤いボタンは、指先のほんの三センチ向こうにある。届きそうで、届かない。手首が押さえられているせいで、あと少しが伸びない。
「ボタンが、押せないんですけど」
「押す必要がなければ、問題ありません。平気なんですよね」
ぐうの音も出なかった。
背もたれから、アームが二本、するすると出てくる。さっきのやつだ。でも今度は、背中にはとどまらなかった。
背中から、脇へ。左右に一本ずつ、私の体の横へ回りこんでくる。ブラウスの上から、あばらの一番下のあたりに、シリコンの指先がぴたりと止まった。
脇腹。
来る。来る、と思った瞬間、来なかった。
指先は、そこに置かれたまま、動かない。一秒。二秒。三秒。
動かないほうが、こわい。
体中の神経が、脇腹の、その一点に集まっていく。息を止めて、腹筋に力を入れて、いつ来てもいいように構える。
四秒目で、指がつん、とつついた。
「ひゃいっ!」
体がびくんと跳ねた。椅子ごと揺れた気がした。
つん。
「ひぅっ」
つん、つん。
「ちょ、やめっ、ひゃっ!」
一回つつかれるたびに、体が勝手に跳ねる。跳ねるたびに、手首のアームが、くっと押さえ直してくる。
「ひゃっ! ひっ、ひゃうっ!」
『笑い指数 44』
いきなり四十四。背中の前哨戦の、三倍以上のスピードだ。
つつく間隔が、だんだん短くなる。つん、つん、つんつんつん。リズムが読めたと思ったら、一回休む。休んだと思ったら、二回続けてくる。
「ひっ、ひゃっ、ちょっ、ひゃいっ、ひゃっ!」
「千石さん、これ、読めない、んですけどっ」
「規則的な刺激には、慣れが生じるので、ランダム化しています」
いらない。そんな配慮は、いらない。
そして、指の動きが、変わった。
つつくのをやめて、脇腹に、指が四本、べったりと貼りついた。
揉んだ。
「ぶふっ」
噴き出した。
「ぶはっ、あはっ、あははははっ!」
肋骨と腰骨の間の、やわらかいところを、シリコンの指が、もみ、もみ、と押しては離す。一本一本の指が、少しずつずれたタイミングで沈みこんでくる。くすぐったさが、波みたいに、つぎつぎ押し寄せる。
「あっはははっ! だめ、だめですって、ひゃははははっ、ひゃっははははははっ!」
腰をひねって逃げようとする。でも左右から同時に来ているから、右へ逃げれば左の指が深く入り、左へ逃げれば右の指が深く入る。逃げ道がない。
「あはははははっ、ひゃははっ、あっははははははっ!」
右手の人差し指を、必死に伸ばした。三センチ。あと三センチ。
指先が、ボタンの縁をかすった——
瞬間、ひじ掛けのアームが、きゅっと手首を引き戻した。
「ああっ、今、今っ、もうちょっとでっ、くっはははっ、くははははははっ!」
『被験者の上肢の動きが大きくなっています。保持を強化します』
チェアから、機械の音声が流れた。
強化しないで。お願いだから、強化しないで。
手首を押さえる指が、さっきより一本増えた。ボタンまで、今度は五センチ。遠ざかった。私が暴れれば暴れるほど、ボタンが遠くなる。そういう仕組みなのか、これは。
「あはははっ、やだっ、やだやだっ、あっはははははははっ!」
「せんごく、さんっ、ボタン、押させっ、くひゃははっ、ひゃはっ、くひゃひゃひゃひゃひゃっ!」
「押させて」の「て」が、どうしても出てこない。言いたいことが全部、途中で笑い声に溶けていく。
「くひゃひゃひゃっ、ひゃはははははっ、あはははははははっ!」
指は、揉むのをやめて、今度は肋骨の一番下の骨を、指先で弾き始めた。ぴん、ぴん、とギターの弦をはじくみたいに。
「ひーっ! そこっ、そこほんとにだめっ、ひゃーっはっはっはっはっはっ! ほねっ、骨にっ、ひびくっ、ひゃっはっはっはっはっはぁぁっ!」
骨に響く。骨の上の、薄い皮膚がびりびりする。弾かれた場所から、くすぐったさが腋の下のほうまで駆け上がってくる。
「ひゃーっはっはっはっはっはっ! ひゃっはっはっはっはっはっはっはっ!」
『笑い指数 82』
モニターの数字が、ちらっと見えた。誰かあの数字を止めてほしい。いや、数字じゃなくて、機械を止めてほしい。
「あーっはっはっはっはっ、ひゃははははははははっ!」
「千石さんっ、あはははっ、止めっ、ひゃははははっ、止めてくださいっ、あーっはっはっはっはっ!」
「あと十秒で、このパターンの計測が終わります」
「十秒っ、十秒って、なが、長いっ、あひゃひゃひゃっ、あっひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!」
十。九。
千石さんが、本当に声に出して数え始めた。数えなくていい。
八。指が、脇腹から、少しだけ上へのぼってくる。七。あばらを一段ずつ、はしごをのぼるみたいに。六。のぼった先は、腋の下のすぐ手前。五。そこで止まる。
「ひっ、ひっ……ひゃはっ……くふふふっ……!」
止まらないで。いや、止まって。どっち。
四。
指が、腋の下の手前で、くるくると円を描いた。
「ひゃっひゃっ、はひっ、はひーっ、ひゃひーっひっひっひっひっひっ!」
『笑い指数 91』
息が吸えない。笑うために吐く息ばかりで、吸う暇がない。笑い声の合間に、しゃっくりみたいな変な声が混ざる。
「はひっ、ひゃひひひひっ、はひーっ、ひゃひゃひゃひゃひゃっ!」
三。二。
一。
「はい、計測終了です」
……アームは、止まらなかった。
「あの、なんで、止まらなっ、ふひゃっ、ふへっ、へへへへへっ、うひゃひゃひゃひゃひゃっ!」
「このあと、次のパターンに自動で移行する仕様になっています」
聞いてない。
「次のパターンは、揉みとつつきの複合です」
聞いてないってば。
指が、また脇腹に戻ってくる。左は揉んで、右はつつく。左右でまったく違う動きをされると、どっちに身構えればいいのか、頭が完全に混乱する。
「きゃーっははははっ、むりっ、むりですってぇぇっ! あはっ、あーっはっはっはっはっはっはっはっ、ほんとにっ、ほんっとにむりぃっ、ひゃあぁっはははははははははっ!」
『笑い指数 99』
『計測範囲外』
モニターの数字が消えて、赤い文字に変わった。
範囲外。私の笑いが、範囲の外に出てしまった。
「ひゃあぁっはははははははっ! あーっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」
涙で視界がにじむ。天井の配管が、ぐにゃぐにゃに見える。もう、平気とか平気じゃないとか、そういう段階の話ではなかった。
「千石さんっ、ひゃははははははっ、範囲外っ、あーっはっはっはっはっはっ、範囲外って、出てますっ、きゃははははははははっ!」
これで止まる。止まるはずだ。計測できないなら、試験をする意味がない。
「はい。範囲外のデータは、とても貴重です」
千石さんは、身を乗り出してモニターをのぞきこんだ。止める気配が、一ミリもない。
「あはははははははっ、ひゃーっはっはっはっはっはっはっはっ!」
「上限を超えたときの反応は、まだ誰も取ったことがないので」
取らなくていい。誰も取らなくていいデータだ、それは。
アームは、範囲外になったことなんて気にもせず、脇腹を攻め続けた。いや、気にしていないどころか、さっきより丁寧になった気さえする。左右の指が、脇腹の前から後ろへ、ゆっくり回りこんでいく。背中との境目の、腰のくびれのすぐ上。自分でも触ったことがないような場所に、指先が一本ずつ、そっと沈みこむ。
「きゃーっははははははっ! そこっ、そこっ、あっひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!」
『反応の大きい部位を検出しました。重点的に刺激します』
検出しないで。
「ひっ、ひぃっ、ひぃぃっ、ひぃーっひっひっひっひっ、ひっ、ひぃぃぃっ……!」
笑い声が、だんだん高くなっていく。自分でも聞いたことのない高さまで裏返って、地下のコンクリートの壁に、わんわん反響した。
声だけじゃなく、体も全部笑っていた。肩が跳ねて、膝が跳ねて、足の指まで勝手にきゅっと丸まる。手首のアームが押さえ直すたびに、ひじ掛けがかたかた鳴った。
「ひゃははははっ、あーっはっはっはっはっはっ、ひゃっはっはっはっはっはっ!」
息を吸おうとした瞬間に、指がつん、と腰の横をつつく。吸いかけた息が、そのまま笑いになって飛び出していく。吸えない。吐くばっかりで、肺がからっぽになっていく。
「あははははっ、ひゃはっ、あっははははははははっ!」
「呼吸は、確保されています」
千石さんが、モニターの別の数字を見ながら言った。
確保されてない。私の体感では、まったく確保されてない。
右手の人差し指を、もう一度だけ伸ばした。ボタンが、遠い。さっきより、さらに遠い気がする。指先が空をかいて、ひじ掛けのアームに、やさしく引き戻された。
「ひゃははははっ、ぼたっ、ぼたんっ、あはははははははははっ!」
『被験者の上肢の動きが大きくなっています』
知ってる。
アームは、今度は脇腹の一番やわらかいところを、指の腹で、ふるふると震わせ始めた。揉むでも、つつくでもない。小刻みな振動が、皮膚の下まで、じわじわと染みこんでくる。くすぐったさが、波から、地鳴りに変わった。
「ふぁっ、はっ、はひゃっ、ひゃふっ、ふへへへへへっ、へひゃっ、ひゃはぁぁっ、あぁーっはははははははっ……!」
もう、自分がどんな声を出しているのかもわからない。笑いすぎて、お腹の筋肉がつりそうだった。目の端から、涙がつうっと耳のほうへ流れていく。
「あぁーっはははははははっ、ひゃははははははははっ、あっはっはっはっはっはっはっはっはっ……!」
モニターの赤い文字は、ずっと点滅していた。『計測範囲外』『計測範囲外』『計測範囲外』。
範囲外のまま、どれくらい経ったんだろう。三十秒か、三分か。時計を見る余裕なんて、どこにもなかった。
「ひーっひっひっひっ、ひゃはっ、あははっ、あーっはははははははははっ……!」
そのとき。
視界の端に、紺色のカーディガンが映った。
大倉部長が、急須を片手に、こちらへ歩いてくる。のんびりと。まるで、縁側からお茶のおかわりを持ってくるみたいに。
部長は、チェアの横で足を止めた。
「おかわり、いるかい」
いる、とか、いらない、とか、言える状態じゃない。
部長は、私の右手の五センチ先にある赤いボタンを、ひょいと、人差し指で押した。
ピッ。
アームが、するすると引っこんでいった。
チェアの上で、私はしばらく動けなかった。
脇腹が、まだぴくぴくしている。触られていないのに、触られている気がする。息を吸うたびに、横隔膜のあたりから、笑いの残りかすみたいなのが、ふっ、ふっ、と漏れた。
ちゃぶ台に戻った部長が、湯のみに新しいお茶を注いでくれた。湯気が、やさしかった。
千石さんが、タブレットを胸に抱えて、私の前に立った。
そして、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、日向さん。とても、いいデータが取れました」
顔を上げた千石さんは、やっぱり無表情だった。でも、目だけが、ほんの少しきらきらしていた。
悪気が、まったくない。
それが一番、たちが悪い。
「あの、千石さん。ひとつ聞いてもいいですか」
「はい」
「本番モードって、何段階あるんですか」
「十段階です。今日のは三です」
三。
私は、十まであることを、聞かなかったことにした。
「明日も、お願いできますか」
千石さんが、まっすぐ私を見る。
脇腹が、きゅっと縮こまった。頭の中で、奨学金の返済表がめくれた。三千円。
「……平気です」
私は言った。
ちゃぶ台のほうで、部長がずずっとお茶をすすった。
その日の夕方、千石さんが書いた試験報告書が、私の机に回ってきた。所見の欄には、きれいな字で、こう書いてあった。
『被験者の「平気」は、計測上の「平気」とは異なる。』