ラベンデル冒険譚

第1章笑う幽霊屋敷

5,887字約10分で読めます2026年10月27日
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「リリアちゃん、ミレイちゃん。今月の家賃、あと三日だからね」

ひつじ亭の朝は、女将さんのその一言から始まった。

私はシチューのスプーンを口に入れたまま固まった。向かいの席では、ミレイがいつもの微笑みでパンをちぎっている。

「はい、もちろんです。ね、リリアちゃん」

「……う、うん。もちろん」

女将さんが厨房に戻った瞬間、私はテーブルに額をつけた。

「ミレイ。私たちの全財産、いくら?」

「銀貨三枚と、リリアちゃんが先週買った『誰でも使える! 上級魔法入門』が一冊です」

「あれは投資よ」

「三ページ目で寝てましたよね」

ぐうの音も出ない。

組んで二年になるけれど、私たちの財布はだいたいいつもこんな感じだ。ラベンデルはいい町だと思う。ラベンダー畑がどこまでも続いて、羊がのんびり草を食んで、はちみつがおいしい。ただ、冒険者が稼げる依頼が、とにかく少ない。

ギルドの出張所の扉を開けると、カウンターの向こうでハンナさんが豪快に手を振った。

「おっ、いいところに来た! あんたたち向けの依頼があるよ」

「報酬は?」

「金貨十枚」

私とミレイは同時にカウンターに身を乗り出した。家賃を払って、おつりでひと月シチューが食べられる額だ。

「内容は?」

「町外れの洋館、知ってるだろ。何年も空き家なんだけど、夜になると笑い声が響くんだってさ。確かめに泊まった連中は、全員朝まで笑い転げて帰ってきた」

「……笑い転げて?」

「見えない何かに、くすぐられたんだと」

ハンナさんはにやりと笑った。この人が私たちに回してくる依頼は、なぜかいつもこういうのばかりだ。

「……ハンナさん。よその町じゃ『ラベンデルの依頼だけは受けるな』って言われてるの、知ってる?」

「知ってるよ。だから地元のあんたたちに回してるんじゃないか」

理由になってない。

ミレイが穏やかに手を合わせる。

「幽霊ですね。浄化なら私の得意分野です」

「だろ? 魔法使いと僧侶、ぴったりじゃないか」

私は胸を張った。

「任せて。幽霊だろうが何だろうが、私の魔法で一発よ」

ハンナさんとミレイが、なぜか同時に小さく笑った気がした。


洋館に着いたのは、日が沈んですぐだった。

ツタの絡まった門。ひび割れた窓。いかにも、という佇まいだ。けれど中に入ってみると、意外なほど片づいていた。広間のソファにはほこりよけの布がかけられ、暖炉の上には小さな額縁がいくつも並んでいる。

「誰かが掃除してるみたいですね」とミレイ。

「幽霊が? 几帳面すぎない?」

額縁の中の絵は、どれも同じ銀髪のおばあさんと、子どもたちだった。みんな、お腹を抱えて笑っている。

「楽しそうな家族ですね」

「ふーん。でも、幽霊になって人に迷惑かけてるなら話は別よ」

私は杖をくるりと回して、広間の真ん中で構えてみせた。

「いい? ミレイ。幽霊ってのは、姿を見せないから怖いの。だったら光の魔法で引きずり出して、正体がわかったところで炎をどーん。これで終わり。私の得意な流れね」

「頼もしいです」

「でしょ? 今夜は寝てていいわよ」

「では、お言葉に甘えて」

ミレイは本当に嬉しそうだった。……あれ、今の、もう少し遠慮するところじゃない?

とりあえず、屋敷の中をひと回りしておくことにした。二階へ続く階段は、一段のぼるごとにぎしぎしと鳴る。燭台を持った私が先頭で、ミレイがその後ろ。

五段目に足をかけたとき、背中に何かが触れた。

首の付け根のすぐ下。背骨のいちばん上のあたりを、指先が、とん、と叩いた。

「ちょっとミレイ、驚かさないでよ」

「私、何もしてませんよ」

振り返ると、ミレイは右手に祈祷書、左手にランプを持っていた。両手とも、ふさがっている。

……じゃあ、今のは。

とん。

もう一度。今度は、ひとつ下。

とん、とん、とん。指は背骨の出っぱりを一つずつ数えるみたいに、ゆっくりと下へ降りていく。触れているのはほんの指先だけなのに、そこから背中じゅうにぞわぞわと細かい波が広がって、肩甲骨のあたりまで鳥肌が立った。

「ひっ……」

背中が勝手に反った。逃げようと前かがみになると、指は追いかけてきて、今度は背骨の両脇を、すうっと撫で下ろした。羽根で掃くような、触れているのかいないのかわからないくらいの力加減。それがいちばんくすぐったい。

「やっ、ふふっ、ちょっ、待っ……」

燭台の炎が、私の震えに合わせてぶるぶる揺れる。背中って、こんなに敏感だったっけ。自分の背中なんて、普段ほとんど意識したこともないのに。

指が腰のくびれのあたりで止まって、そこに小さな円をくるくると描いた。

「ひゃはっ!」

私は燭台を握りしめたまま、階段を一気に駆け下りた。

広間のソファに飛びこんで、背もたれに背中をぴったり押しつける。これで後ろからは来られない。完璧な防御だ。

……光の魔法で引きずり出すんじゃなかったっけ、私。詠唱のことを思い出したのは、ソファにしがみついてからだった。

ミレイがゆっくりと階段を下りてきた。ランプの明かりの中で、いつもの微笑みが、いつもより少しだけ深い。

「リリアちゃん。幽霊、出ましたね」

「出たわよ! 見た!? 今の!」

「見えませんでしたけど、聞こえました。とてもいい反応でした」

「感想はいらないの!」

「でも、おかげで作戦が決まりました」

ミレイは胸の前で手を合わせた。嫌な予感しかしなかった。

ミレイは広間の床に、聖水で丸い線を引きはじめた。

「結界です。この中にいれば、霊は手出しできません」

「さすがミレイ。じゃあ私もその中で——」

「リリアちゃんはソファでお願いします」

「なんで?」

「霊は、すっかりリリアちゃんを気に入ったみたいですから。リリアちゃんが眠ったふりをしておびき寄せて、現れたところを私が浄化します」

理屈は通っている。通っているけれど。

「……ミレイ。それ、私がおとりってことよね」

「頼れる前衛です」

「魔法使いは後衛なんだけど」

ミレイは微笑んだまま、結界の真ん中に毛布を敷き、クッションを置き、ティーポットを並べた。完全にくつろぐ構えだった。

「ねえ、その毛布、なんで一枚しかないの」

「リリアちゃんの分は、ソファの布がありますから」

「ほこりよけ!」

文句を言いながらも、私はソファに寝転がった。いいわよ、やってやろうじゃない。出てきた瞬間に光の魔法で正体を暴いて、炎で追い払う。完璧な作戦だ。

目を閉じたまま、詠唱の言葉を頭の中で繰り返す。光よ、闇を払いて、その姿を示せ。光よ、闇を払いて……。

暖炉の薪がぱちぱちと鳴る。ミレイが紅茶をすする音がする。

……あれ。このソファ、意外とふかふか——


脇腹に、何かが触れた。

最初は、夢かと思った。ほつれた糸が肌をかすめたような、ほんのかすかな感触。服の上から、肋骨の下のやわらかいところを、誰かの指先がそうっとなぞっている。

目が開いた。広間は暗い。暖炉の火は小さくなっていて、ソファのそばには誰もいない。

なのに、指の感触だけは、確かにそこにあった。

「っ……!」

ゆっくりと、円を描くように。一本、二本、三本。触れるか触れないかの力加減で、指先が服の上を這っていく。くすぐったさが肌の表面からじわじわ染みこんで、お腹の奥のほうがむずむずと落ち着かなくなる。

体が勝手に丸まった。腕で脇腹をかばおうとする。でも見えない指は、その腕の下の隙間に、するりともぐりこんできた。

「ちょっ……ま、待って……!」

落ち着け、私。これは想定どおり。幽霊が出た。あとは詠唱するだけ。

「光よっ、闇を、払いて——」

指が、脇腹をきゅっとつまむように揉んだ。

「——はらいへへへっ!?」

杖の先がぽわっと光った。蛍一匹分くらいの光がふらふらと宙を漂って、消えた。

暗闇のどこかで、くすくすと、品のいい笑い声がした。

「あらあら。いい声ねえ」

しわがれた、やさしいおばあさんの声だった。

「ミレイ! 出た! 浄化!」

結界の中で、ミレイはランプを灯し、ゆっくりと祈祷書を開いていた。

「はい、ただいま。ええと、浄化の祈りは……何ページでしたっけ」

「暗記してないの!?」

「普段は覚えてるんですけど、リリアちゃんの声を聞いていたら、つい」

「つい何!?」

その間にも、指は止まらない。両側の脇腹を、上から下へ、下から上へ。ときどき不意に止まって、私が息を吐いた瞬間に、またこちょこちょと細かく動きだす。

ずるい。完全にこっちの呼吸を読んでいる。

「ひっ、ふふっ、くふ……っ」

笑っちゃだめ。笑ったら詠唱ができない。魔法使いにとって、それは死と同じ。私は唇をぎゅっと噛んで、ソファの布を握りしめた。

指が、ふっと離れた。

……終わった?

そう思って力を抜いた、その瞬間。

十本の指が、一斉に、脇腹に食いこんだ。

「ぶはっ」

噛んでいた唇が、内側から弾け飛んだ。

「——あっはははははっ! やっ、だめっ、だめだめだめっ、あはははははっ!」

自分でもびっくりするくらい大きな声だった。我慢していたぶん、笑いが一気にあふれた。体がソファの上で跳ねて、足が勝手にばたばたと宙を蹴る。逃げようと身をよじると、指はぴったりついてきて、よじった側をさらに念入りにくすぐってくる。肋骨の一本一本を数えるみたいに、指先が上へ、下へ。

「ミレイっ、はや、はやくっ、ひっ、はやくぅぅっ!」

「ありました。三十二ページです」

「読んでぇぇ!」

「天におわす光の御方よ、今日の糧に感謝を……あ、これは食前のお祈りでした」

「わざと、でしょっ、ふはっ、わざとでしょぉぉっ!」

怒鳴ったつもりが、半分は笑い声に溶けていた。

ソファから転がり落ちた。床の上でじたばたしながら、私は気づいた。結界まで、這っていけばいいんだ。あの中なら、幽霊は手出しできない。

必死に床を這う。笑いすぎて腕に力が入らない。それでも、聖水の線まで、あと少し——

指先が線に触れた瞬間、ぱちん、と弾かれた。

「いったぁ!?」

結界の中から、ミレイが申し訳なさそうに私を見下ろしていた。

「あ、言い忘れてました。この結界、霊だけじゃなくて、霊にくっつかれている人も弾くんです」

「先に言ってよぉぉ!」

背中に、またあの指が乗った。

床に転がったまま、私は杖を握り直した。光がだめなら、炎だ。姿が見えなくても、熱でびっくりさせれば離れるはず。

「紅蓮のっ、炎よ……我が、呼び声に……」

いける。指は背中をうろうろしているだけで、脇腹からは離れている。今のうちに——

「応えて、燃え——」

するり、と指が脇腹に戻ってきた。肋骨の下、さっき一番効いたところを、狙いすましたように、ちょん、ちょん、とつつく。

「——もえへへへへっ!?」

杖の先から、ふわっとあたたかい風が吹いた。それだけだった。風はゆるやかに広間を横切って、結界の中のティーポットをやさしく包んだ。

「あら。紅茶が冷めかけていたので、助かります」

「あなたのために撃ったんじゃ、ないぃっ、ひゃっ、ひゃはっ、きゃははははっ!」

つつく指が、くすぐる指に変わる。脇腹の両側を、こちょこちょと休みなく。私は床の上でくの字に体を折って、笑いながら転げ回った。逃げても逃げても、その指はどこまでも追いかけてくる。

そのうち、笑い声の形が変わってきた。

最初は「あはは」だったものが、だんだん高く裏返って、「ひーっ」としか出なくなる。息を吸おうとすると、その瞬間を狙ったみたいに指が動いて、吸いかけた空気がまた笑いになって出ていく。

「ひっ、ひっ……はひっ……ひゃひひひっ……」

しゃっくりみたいな、変な声。こんな音が自分の喉から出るなんて、今まで知らなかった。お腹の筋肉がつりそうで、目尻から涙がにじむ。床を叩いて抗議しても、返ってくるのは楽しそうなくすくす笑いだけだった。


それから何分笑い続けたのか、よく覚えていない。

息も絶え絶えになって、床に大の字に転がったまま、私は叫んだ。

「もう、やだぁっ……ひ、ひぃ……おばあちゃんっ、もうやめてぇぇっ!」

声は、ほとんどかすれていた。

ぴたり、と指が止まった。

暗がりの中で、何かがゆらりと揺れる。暖炉の火が急に明るくなって、ソファの横に、うっすらと人影が浮かび上がった。

額縁の絵と同じ、銀髪のおばあさんだった。上品な紫のショールをかけて、目を丸くしてこちらを見ている。

「……今、おばあちゃんって、呼んでくれた?」

「え? あ、うん……声がそんな感じだったから……」

おばあさんの顔が、くしゃっとほころんだ。

「まあ。まあまあまあ。そう呼ばれるの、何年ぶりかしら」

その人は、マーサと名乗った。この屋敷に長く住んでいて、孫たちをくすぐって笑わせるのが何よりの楽しみだったこと。孫たちが大きくなって町を出ていき、自分が亡くなったあとも、なんとなくこの屋敷を離れられなかったこと。

「静かすぎてねえ。誰かの笑い声が聞きたくて、つい」

「つい、で朝まではやりすぎだと思う……」

「昔は、こんなじゃなかったのよ」

マーサさんは、窓の外の暗い森のほうを見た。

「森の奥の泉の話、知ってる? 私が若いころはね、あの泉の水を飲むと一日じゅう笑いが止まらないって、みんな言ってたの。でも最近は、そんな話もとんと聞かなくなって。この町も、なんだか笑い声が少なくなった気がするわ」

森の泉。ハンナさんの依頼書には、そんなこと一言も書いてなかった。

「……成仏、するの?」と私は聞いた。

「どうしようかしら」マーサさんは首をかしげた。「こんなに笑ってもらえたら、もう少しここにいたくなっちゃった」

結界の中から、ミレイがようやく出てきた。祈祷書を閉じて、にこにこと手を合わせる。

「それでしたら、ときどき二人でお茶をしに来ますね。リリアちゃんも連れて」

「なんで私が付属品みたいな言い方なの」

「まあ、嬉しい」

マーサさんはふわりとミレイのそばに寄り、その脇腹を、指先でちょんとつついた。

「ひゃいっ」

ミレイの肩が跳ねた。

広間が静まりかえった。私とマーサさんの視線が、ゆっくりとミレイに集まる。

ミレイは三秒ほど固まってから、いつもの微笑みを取り戻した。

「……今日は、少し調子が悪いだけです」

「今の声、何?」

「調子が悪いだけです」

マーサさんが、楽しそうに目を細めた。私もたぶん、同じ顔をしていたと思う。

翌朝、私たちはギルドに報告を出して、無事に金貨十枚を受け取った。

「泉?」報告を聞いたハンナさんは、一瞬だけ手を止めた。「……ま、年寄りの昔話だよ。気にしなさんな」

そう言ってすぐ笑った顔が、なんだかいつもより少しだけ、ぎこちなかった気がする。

家賃を払って、残りでひつじ亭のシチューを二人前、大盛りで頼んだ。笑いすぎたせいか、お腹の筋肉がまだ少し痛かった。

報告書の「解決方法」の欄には、私の字でこう書いてある。

「おばあちゃんと呼ぶこと」